自宅に帰る日が待ち遠しく思えたのは恐らく初めてだ。
入院していたときすら意識していなかった。
なのに、自分の意思で自宅を離れたのに不条理だ。
自宅を離れて某旅館に逗留している。
とは言え文豪のような優雅なものではない。
リゾートバイトなるものを試みたのだ。
旅館に泊まれるわけではなく、その寮に入った。
調理用具どころかごみ箱さえない。
寝て顔を洗い直して着替えるだけの機能だ。
旅館本体まで徒歩7分。街にはさらに徒歩7分。
最寄りのスーパーには歩くと70分。
試しに歩いて買い物に行くと坂道で疲れた。
昼と夜は従業員食堂を利用できる。
しかし朝食は自前で調達せねばならない。
上記の、湯沸かしポットも冷蔵庫もない環境で。
ない知恵を絞り、朝食分だけ持ち込んでおいた。
いわゆる栄養機能食品とスキムミルク。
常温で保存が利き、包丁も熱湯も必要ない。
最低限、抜くよりましな程度でいい。
持病の薬を飲めればいい、と割り切った。
シンクはあるので気休めに百均の浄水器を付けた。
単発10日の契約で、うち1日は休み。
よほど誰でもできる仕事なのだろうと期待していた。
甘かった。自分には人並みに仕事ができない。
言いつけられた作業がまともにこなせず愕然とした。
例えば食器を洗って片付ける仕事。
食器ごとに使う道具が指定されている。
片付ける場所はフロアによって違う。
(作業するフロアは猫の手の需要によって変わる)
しかしいずれも明文化されていない。
すべて口頭で指示される。
猫の手も借りたい繁忙期なのでメモをとる余裕もない。
誠心誠意やっていてもほとんど自力で完結できない。
私は頭が悪いのだろうか。
ものわかりや短期記憶利器が劣っているのだろうか。
そんなことより、役に立てているのだろうか。
現場の人々に責められることはない。
むしろ下にも置かぬ待遇で気を遣ってくれている。
仕事のための仕事を作ってくれる人も複数。
その時その場で切り出せる単純作業をくれるのだ。
単純作業レベルなら不器用なりに何とかこなせる。
しかしその単純化が却って負担になっていそうだ。
マニュアルがあればいいのに。
フロアマップと収納ラベルがあればいいのに。
そんな不満ばかり蓄積し、学習も成長もできない。
現場の人々は必ずしも正社員ではない。
派遣社員でもまったく自律的に仕事をこなしている。
指示や指導をする正社員の姿はない。
他のフロアや部署と連絡を取る端末の貸与もない。
皆さんが陸の孤島のような環境で働いている。
経験知で所定の業務を終えるとフロアを移りながら。
派遣社員の扱いってそれでいいんだっけ?
そんなこと考える暇があったら仕事を覚えろ自分。
休みの日には現地を観光するのが筋なのだろう。
なにしろ「リゾートバイト」だ。
しかし一時帰宅して息抜きすることにした。
自宅に1泊、とんぼ返りという奇妙な経験だ。
ご飯も炊けるし魚も焼ける。
その魚も片道10分あれば買いに行ける。
何だこの幸せは。
カジカの囀りも青紅葉もないが、ごく快適だ。
