いつまでやってんの

西日本セミナーから帰ってみると、上海からメールが来ていた。
中国語案件に応募したはずなのに、英文和訳の引き合いで思わずため息が出る。
ともあれ数百字ですぐ対応できそうなので引き受けることに。


納期が日曜という時点で「?」なのだが、日付が変わるような時間に納品しても返事が来るとは。
自由業者たる個人翻訳者が宵っ張りだったりするのは珍しくもないだろうが、翻訳会社まで?!
中国人は定時で帰る、なんていうのは過去の話なのかもしれない。
尤も、今回の「担当者」は「社長」なので「労働者」ではないと言われればそれまでだが。

通勤ラッシュ

そう言えば、久々に通勤ラッシュを味わった。
一駅分だけ巻き込まれたと言うべきかもしれないが。
地下鉄はこれでもかというほど混んでいたのに、阪神には座って乗れた。
始発駅だからなのか、沿線住民の数がそもそもそんなもんなのか。

泡立てネット

この年に珍しく(医者・談)帯状疱疹なるものを患ってしまった。
薬代が笑えるほど高いのはさておき、要は湿疹なのでこすれない。が、薬を塗るためにも洗いたい。
と、シャンプー棚の上に放置していた泡立てネットが目に入った。
もらってしばらくは洗顔用に使っていたものの、面倒になって今に至る代物がここにきて大活躍。
洗顔用ならぬ浴用の石鹸でも十分以上にもこもこと泡だってくれる。
こすらないどころか手で直接ふれないで洗うことができた。
念入りにシャワーで流したはいいが、これで本当に清潔なのかは何となく疑問……。

非常識

自分が八年前にしてしまったこと(の影響)を母に聞いて知った。
聞くまで知らなかった。
伯母から、幼少時の私は「見ている方が歯がゆいほどの引っ込み思案」だったと聞いた。
聞いて納得した。
勝手にその二つが脳内で結合した。


長らくいじめられていたことも、家庭内で大問題を起こしたことも、原因は私の非常識にある。
私の生まれ育った地方では必要な、そして誰もが身につけている常識を、私が持ち合わせていないのだ。
そう、いまだに身につけることができていない。


思いやり、気遣い、そして先回り。
あいにくどれも机上でしか理解できていない。


誰もが自分のことをあまり語ろうとしないので、あの地方では高度な空気読み能力が必要となる。
相手や回りの人間がどう考えているかをただ察するだけでは足りず、先回りして手を打つのが常識。
常識なので、誰も教えてくれることはなかった。
が、私は非常識なので、教えてもらえないことを知ることができなかった。
そして、教えを請う勇気がなかった。
もしかして生まれ育ったのが近年だったなら、社会なんちゃら障害とかいう病名がついていたかもしれない。
だが私の生まれ育った時代には、恐らくそんな概念など普及していなかった。
特にそれを恨む気はない。
まして今や誰に対しても負の感情は持っていない。


ただ、私は悲鳴を上げることができなかった。人に泣きつく勇気が出せなかった。それだけのことだ。
悲鳴を上げないこと、人に泣きつかないことだけが、「えらいねえ」と言ってもらえる手段だった。
その言外、その先にどういう考え、思いがあったのかまで察することができていなかったのだ。
よしんば察することまではできても、先回りして手を打てるほどの行動力は持ち合わせていない。
自己流で先手を打ったときの失敗が怖くて何もできない。
そこまでの弱さを、そのまま誰かの目に入れるだけの強ささえなかった。


この年で常識が身についていない私を許す人は、少なくともそこにはいないだろう。
否もしかするともっとずっと前から、誰も許してくれていなかったのかもしれない。
許してくれていなくても、それを読み取って何とかするだけの力はないのだから同じことだ。


都会の人は、東京であれ大阪であれ、相対的に自分のことをよく話すし強く主張する。
そして相手のこともかなり色々と尋ねる。
相手や回りが何でもぽんぽんと口にする環境にいれば、私も口を開くことはできた。
おかげでどうにか、自分の弱さを少しずつ見せられるようになってきた。
弱さは必ずしも弱みではない、ということが少しだけ分かった。
どうにか十歳児相当には成長したのではないだろうか。


だが今の私には、まだ地元が怖い。

円高の影響?

「翻訳業界は景気の影響をほとんど受けない(が今般はそうでもない)」と聞いたばかりだが。
最近どうも外資(しかも国外)の翻訳会社・制作会社から声をかけられることが多い。
英日翻訳は本業じゃないのに断るだけで忙しい日も発生するほどだ。
その手の案件は特にどこの国から来ているというわけでもないので、永田町の影響もあまり受けない。
#中国がらみはどうしても政局に左右される気がする


ふと大昔に在籍していた某国際企業の話を思い出した。
輸出で稼いでいるがゆえに「1円の円高でうち(当社)は1億円の損だ」という。
それが今般の円高、恐らくちょっとやそっとのコスト節約なんて焼け石に水より無力だ。


で。輸出企業が円高で困る、ということは、輸入側(→対日輸出)は今頃ウハウハなのか?
そういえば依頼の内容も売り込み資料だったりすることが多い。
円高になったから対日輸出を始めます、なんてことは流石にないだろうが。

IT翻訳にもほどがある

相当な量のゲーム翻訳(中文和訳)が手離れしたと思ったら、海外某社から英語の案件が来た。
「サンプル付けるけど、これって翻訳できる?」
何のことやらと思ってサンプルを開いてみたところ、C言語のソースファイルらしい。
英語というより、言語が違う気がするのだが。
念のため「翻訳対象は引用符で括ってある中だけよね?」と確認中……


正直、ここ6年ほどこの仕事をしてきて初めて見た。
いつも翻訳会社の中の人が翻訳対象部分を切り出してくれているのか、そもそも回ってこないだけなのかは知らない。
それにしてもソースファイルって。
そっちの言語を知らない人間が触ったらほぼ確実に壊す気がしてならない。
英語力ってレベルぢゃね~。

実力の証明

日外アソシエーツのメールマガジンを読んでいたら、「トライアルを課されると怒る翻訳者が多い」とあった。
経験者に対してテストとは失礼な、と怒るそうなのだが、私にはぴんと来ない。
つきあいのある(しかも心証が良くない)会社から「このぐらいタダでやってよ」と言われて怒るなら分かる。
でも、仕事をしたことがない相手からの試訳依頼だったら喜んで引き受けるのが普通ではないか?


自分はこれだけの仕事ができる、という証明をするのに最も手近な手段だと思うのだが。
訳文のサンプルを送るという方法もあるが、版権や機密保持に問題のない原文を探すのに一苦労する。
いっそ相手が指定する文を訳して送るだけでいいなら、本番の仕事なみかそれ以下の手間で済む。


メールマガジンにもあったが、何年か経験があるというだけで実力を証明するのはやや無理がある。
まして、経験年数など詐称可能なただの数字だ。
自分が詐称する・しているつもりはないが、見知らぬ誰かが詐称していないとは限らない。
そういう目で採用・依頼担当者がこちらを見ている可能性も否定できない。


そんな無用な心配をするぐらいなら、四の五の言わずあっさりやってのけたほうがお得だと思う。
ことに私は仕事の速さが取り柄なので、出題されたらすぐに回答する主義だ。
相手が納品の早さまで見ているかは分からないし、早い=雑、と捉えられてしまうかもしれない。
でもその時はその時。縁があるかないか、相性の問題だと流すことにしている。
翻訳者のつくりかたにも書いたが、結局のところ相手が気に入れば合格、というだけのことなので。

英語対和製英語

セシールにハイテンションパンツという商品がある。
縦横の伸縮性に優れた、いわゆるストレッチパンツの一類型なのだが、
どうもハイテンションと聞くとつい笑ってしまう。
「マンションよりハイテンション」なる不動産CMが流れていたりして、
#サンバ隊が賑やかに押し寄せる
ハイテンションという響きには緊張や張力といった元のtensionの意味を見いだせない。
テンションが上がる、高いといった表現もまたしかり。
ここまで来ると和製英語と言うべきか新しい日本語と言うべきか迷うところだ。
日本語の「テンション」は、緊張というより高揚に近いのではと思う。
緊張しすぎると笑ってしまう現象が由来だったりするのだろうか。

べきべきねばねば

私の身近な人々、特に同郷の人々には鬱ないし類似疾患の人が多い。
いずれも「まじめで」「責任感が強く」「しっかりした」性質の強い人ばかり。
そんなことはよく新聞やら公報やらで目にするのだが、では何故そうなるかという話は聞かない。
専門医にしか公に語る資格はないのかもしれないが、まあ言論の自由ということで考えを書いてみる。


上記の性質が強い人は、許せないモノ・コト・ヒトが多いのではないだろうか。
・まじめさ故に、自分と接する相手にも何らかの誠意を求めてしまう。「相手もまともなはずだ」
・責任感故に、手元の仕事を放置できない。「これは・今・自分が・やらねば」
・しっかりしているという外部評価がこの二つに加わり「まさか自分がいい加減なことはできない」となる。
・そして「何でこうなるの(そんなはずはない)」と落ち込み、更に自分を咎める。
かつ、何かと「はず」「ねば」「べき」という帰結にたどり着きがちな人は理不尽なモノ・コト・ヒトに弱い。
雨が降ったり、景気が悪くなったりというような現象は、たいてい一個人のせいではない。
もし誰かのせいだとしたら、よほどの権力者であろう。
だがそういうことも、往々にして「自分の・誰かの行いが悪いから?」と考えがちだ。


そして、そういう人に「自分を責めないで」と声を掛けると、責め場がなくなって余計につらくなる。
本来は自分も他人も責める必要はないことでも、「自分を責めないで」と言うことで逆に「誰のせいなのか」気になるのだ。
ではどう話しかけるべきかというと難しいところだが、「誰も悪くない」というのも正解ではないと思う。
かといって「そんなこと気になさるな」と言って立ち直るぐらいの人は病院沙汰にはなるまい。
話をそらして済む場面ならそうするに越したことはないだろうが、「まじめさ」故に食いつかれたらどうしたものか。
恐らく、できる限り誠実に聞き流すのが無難だろうと思う。
「私はあなたを理解してあげる」と伝えてしまうと相手には重いが、「理解できない」と突き放すのもおかしい。
「理解してあげたいとは思うけれど、無理はしないで」という心情だけをうまく伝えられないものか。
……そう、べきべきねばねばを改善してあげたいと思ったら、自分がべきべきねばねばと考えるのは滑稽な話。「変だと思う」「多分それでいいんでないの」ぐらいのいい加減さが欲しいところだ。
いかんせん、べきべきねばねばな人が尤も許し難いものはいい加減さなのだが。

誕生日の意義

先日、旧友の誕生日にメールしたとき思わず「もうめでたくないかな?」と書いてしまった。
「それもそうだね…」とアレなメールが返ってくる微妙なお年頃。


ふと思ったのだが、誕生日を迎えてめでたいのは本人ではなくその親ではなかろうか。
特に幼少時は他の年齢層と比べ生存率が低い。
物心がつく前の誕生日は、きっとそこまで育てた親を労う節目なのだ。
就学したころから自分の誕生日を認識し、待ちこがれるのはプレゼントをもらう口実だから。
満年齢が変わったところで法律上の地位が違う程度の影響なので、特に年を取りたい理由はなかった。
尤も、今では翻訳者という職業柄、若いより年かさな方が信頼は得やすそうだ、という事情はあるが。


さて「めでたくないかも」と感じてしまう年頃の誕生日は、誰をどう祝ったものか。
やはりここは、これまで育て、生活力をつけてくれた両親に感謝する日でいいのでは。
自分の力で生活しているようであっても、その基礎を与え、投資してくれた人あってこその今である。