ある国際化の現場にて

近所の回転寿司屋に行ったところ、注文システムが刷新されていた。
商品選択パネルの表示が多言語表示になっていたのだ。
大人気ないとは自覚しつつも、ついつい試して遊んでしまう(※ちゃんと使っている)

中国語の品書きは基本的に日本語の品名を簡体字に置き換えたものだった。
翻訳らしい翻訳がされているかというと、だいぶ厳しい状況。
「海老」が「鲜虾」、「生海老」が「生虾」になっている。
逆翻訳すると、前者は生の海老、後者は生煮えの海老。
しかし「海老」にぎりの海老は実は生ではない。
この回転寿司屋に限らず、単に「海老」と言うとボイルされたものを指すはずだ。
つまり、結果として、火の通り具合がむしろ逆転している
些細な問題なのかゆゆしき事態なのか、私には分からないが。
英語版では綴りの間違いもちらほら見られた。
また、誤訳とは断定しきれないのだが「葱」が一括置換したように「green onion」。
これも実物は白葱だからむしろ「leek」だろうと思うのだが、そういうものだろうか。
なお、いずれの言語でも訳出されず日本語のままの商品もあった。


利用客は商品写真と同時に文字を見るので、実害はないのかもしれない。
(海老の件はそれでも心許ないが)
それにしても思わされたのが、メニュー翻訳の難しさ。
文字列だけ渡されたら、「海老」は「鲜虾」、「葱」は「green onion」と訳しかねない。
果たしてこの取り違えを翻訳者個人が防ぐことはできるのだろうか。
せめて商品写真を請求するぐらいはしておかないと、と改めて思った。
恐らく他の機会で目にする翻訳メニューにも似たような現象が起きているのだろう。
利用者と翻訳者、両方の立場に立ってみると気分は複雑だ。

生きているのか微妙な言葉

自宅の共有玄関に「お住みの方の迷惑になります」とかいう張り紙があった。
反射的に「お住み」ではなく「お住まい」のほうが自然かと感じたのだが、由来が分からない。
そもそも「住む」と「住まう」の違いを意識したことがなかった。
試しに「住まう」を辞書で引いてみると


大辞林 第二版 (三省堂)では
すまう すまふ 【住まう】
〔「住む」に継続の助動詞「ふ」が付いたものから〕
(1)住み続ける。暮らし続ける。
(2)(芝居の舞台で、登場人物が)すわりこむ。座を占める。


とある。
住み続けずに住むという状態がにわかに想像しがたいが、語の成り立ちには興味を覚えた。
似た構造、由来の語句には他に何があるだろう?
動詞に「う(ふ)」が付くことで継続を示す別の動詞になったもの。
とっさに思いついたのは「うつる-うつろう」だった。
上記辞書で確かめたところ、正解。
当たっていたのはいいが、意外なほどに他の例が思いつかない。
しばらく考えて見つけた次の正解は「よぶ-よばう」
どうも最初の「住まう」を含め、書き言葉にしか出てこない気がする。
日常会話で発する機会はなさそうな語彙ながら、何となくこういうものは忘れたくない。

対象読者

たいていの入門書は、誰が読んでも分かるように想定した書き方になっている。
前提とされる基礎知識が足りず首をひねることはあるが、読み進めるうち分かることも多い。
少し慣れてくると専門用語の誤植に気づいてしまうこともあるぐらいだ。
しかし専門書となると、やはり前提とされるものについていけないことがままある。
たいていは序文のあたりに対象読者が明示されているので、すぐそれと分かるのだが。
『世界で一番やさしいマンション大規模修繕』なる本を題名だけ見て借りたら失敗した。
対象読者が建築家だったのだ。
しかも半分ほど読み進めるまでその想定が読み取れなかった。
さほど難解な用語や言い回しもなく流し読みをしていて、ある箇所で違和感を覚えたのだ。
読者が管理組合にアドバイスする?
もしやと思って見直してみると、やはり一個の住人ではなく外部の誰かが想定されている。
こんなこともあるものか、と力が抜けた。
体裁がムックで、中身も読みやすいのに、一般書でなく専門書だったとは。
何ら建築に関わりのない私でも、参考になる点は結構あったのでいいと言えばいいのだが。
やはり文章は一部でなく全体を把握しないと危険だ。
仕事の場合、支給される原稿が全文であるとは限らないが。
分からなければ問い合わせる必要を感じた。
それこそあまりに基本的で、同業の誰も意識しない前提なのかもしれないが。

捨象と分析

このところ暇があれば濫読に勤しんでいるのだが、久々に言語学の専門書。
オリンピックの言語学 -メディアの談話分析なる書名に惹かれて手に取った。
学術論文集なので、素人がさらっと読んでいい加減な感想を垂れ流すのは失礼かもしれない。
仕事柄、自分が純粋な素人であるかは首をひねりたいところなのだが。
扱われている「メディア」は新聞の見出し、雑誌・テレビのインタビュー、ブログなど。
頻出単語の統計をとったり、情意装置なるモデルを適用したりして分析し考察したものだ。
日韓の新聞を比較して両言語の特徴をあぶりだそうとするなど、切り口が面白い。
ただ、言語学そのものの素養が自分に足りないのか、見ていて同意できる結論はなかった。
ひたすら、収集されたデータの羅列そのものを眺めている方が得るものは多かった気がする。
もうちょっと調査の手を広げてくれたら、と歯がゆく感じたところも多い。
かといってこれらを引き継いだ研究をしたいかと問われると、やはり首をひねってしまう。
実務家でありたいという意識が顔を出しているのか、自分でも確証はないが。
感じたのは、言語の特徴というより各国文化の特徴ばかりだった。
無意識にそういうものを読み取ろうとしてしまっていたのかもしれない。
それこそ学者でもあるまい、発見はあったのだからよしとすべきなのだろうが。

帰れども

毎年お盆や夏休みの帰省と見聞きするたび悲しくなる。
戦争災害や大規模事故のための嘆きではないので、余りにも小さいが。
もう十年、兄を見ていない。
最後いつだったかを失念していて、また非礼を責められるかもしれないが、いっそ叱ってほしい。
深刻な事情あっての生き別れでも何でもなく、彼は健在である(と母から聞いている)。
私が彼を傷つけたから、姿を見せようとしてくれないだけのことだ。
きっかけは、重要な連絡の遅れだった。
思うところあって慶事を伝えられずにいたのだが、諸事が重なり言わずじまいになったのだ。
あの時きちんと素直に謝れば、こうはなっていなかった。
そんなことを弁解するつもりも正当化できる論拠もありはしないが。
自分に思いつく限り事態をどうにかしようと、何度か手紙はしたためた。
が、内容が歪だったり宛名に誤字があったり、全くの逆効果だったようだ。
宛名に誤字など、客観的にもあり得ない失礼さなので致し方ない。
悪いのは一方的に私だ。
分かっている。
しかし謝ることすら許されない状態で、もう十年が過ぎた。
この上どうしたらよいのだろう。

タフ?

その名も『「もうムリっ!」と思ったら読む本』読了。
具体的に何かに追い詰められていたわけでもないのだが、ふと気になったので手に取ってみた。
標題から察しがつくとおり、ストレス対処の方法論が紹介されている。
要は発想を転換しなされということだが、そう言ってしまっては身も蓋もない。


あなたの周りの「タフな人」を見てほしい。あんがい、「柔らかい雰囲気」の人ではないかと思うが、どうだろうか。(本文P164)
「タフな人」は、自分を責めないという共通点を有している。(本文P166)


ここで「タフな人」と鉤括弧がついているのには意味がある。
周囲からそう言われている、ということの強調だ。
本人がそう意識しているかに関わらず、「タフな人」と評価される人とは。
頑強というより、むしろしなやかな人なのだろうと思う。
まあストレスをどうにかしたい読者に向けて頑強になれと勧める理屈もなかろうが。
あきらめ、妥協、開き直りといったアレな言葉が踊る同書の終盤で「タフな人」が出てくる。
そこにある種の安心感を覚えたということは、この本が効いたということか。

遊び

自分に厳しい、自己評価が低すぎるなどとよく言われる。
社交辞令でなかったら買いかぶりではないかと思う。
素直に自分の時間、自由を享受できていないだけだ。
とはいえその自分をわざわざ貶めたり蔑んだりしているつもりもないのだが。


久々に手持ち仕事がある状態で「遊び」に出かけた。
先週火曜に受注しておきながら作業開始に待ったのかかっていた案件。
担当範囲が削除される見込みと聞いていたので原稿の整理だけにとどめていたのだが、
月曜の朝に本来どおりの内容で進めるよう正式連絡が入った。
所定納期は来週月曜だが、開始遅延分を反映させてくれるよう打診。
A4で50枚を超える規模なので、どのみちすぐには終わらない。
いつもなら、終わるまでひたすら仕事漬けになっていた。
今回は、開始連絡だけで待たされるのが厭になったので、エステの予約を入れていたのだ。
当日にキャンセルすると勿体ないので、適当なところで作業を中断し外出した次第。


地下鉄の一駅分だけ歩き、目新しい町並みを眺めると存外いい気分だった。
若い人から元気をもらおうなどと思っていたわけではないが、結果としてそんな感じに。
ふと、このタイミングで来てよかったと思った。
息抜きは疲れ切る前に挟むのが正しいような気がする。
今回はせいぜい一日半の実働で、疲れと言っても知れているのだが。
リンパを流してもらいすっきりしたせいか、帰りは暑さも気にならず軽い足取りだった。


このところ、仕事と暇つぶしで日を送っていたことに気づく。
休憩も娯楽も、予定の楽しみもなかった。
決して多忙だからではない。つぶすような暇はあったのだから。
活力の低下を感じていた原因は、この張り合いのなさにあったのかもしれない。
全く贅沢な話なのだが。
この年(年齢というよりフリー歴)にもなってまだ、時間の使い方が下手で困っている。
何か予定を立てて自分に予約を入れてしまうという方法も有効かと思った。
いかんせん、仕事ぐらいしかやりたいことがないのも事実なのだが。
息抜きに誘ってくださる方があれば、今後ほぼ無条件で歓迎するつもりではいる。

毛引き

「エリカラつけちゃうよ」と言われ、はっとした。
エリザベスカラー。毛引きや自咬症などの自傷行為を邪魔するための道具である。
鳥類だけでなく犬猫にも使われているらしい。
ただ、発言の主がつけると言っている対象はこまちよではない。私だった。
物理的には全く何もしていなかったのだが、発言がよほど痛々しかったらしい。
半分は分かっていて垂れ流していたものの、やはり周囲に不快だったろうか。


毛引きというのは、鳥が自ら羽毛を抜いてしまうことと解釈している。
一年以上前、それで動物病院のお世話になった。
羽毛が減って驚いたからではなく、出血が見られたので慌てて連れて行ったのだ。
筆毛と呼ばれる未成熟な羽毛は途中で折れると出血を起こす。
鉗子で問題の筆毛を抜き、止血してもらって事なきを得た。
その時の先生の言葉が今も忘れられない。


「最初の原因は分かりません。病的なものではないので心理的な何かでしょうか。
 分かればその原因を取り除いてあげるだけで自然と治るものですが……、
 これね、一度やり出すと気にしちゃうんですよ。
 抜いた羽が生え直してくるのを気にし出すと、何度でも抜きますね。
 止めるには、ですか?
 エリザベスカラーをつけるだけではやっぱり気にすると思うので……、
 苛立っているんでしょうから、頭がぼうっとする薬を出します。
 ただの毛引きなら命に関わることもないので、様子見でもかまいませんが
 どうしますか?」


頭がぼうっとする薬と聞いて、こまちよが気の毒というより自分が悲しくなった。
いらいらするなら、ぼうっとさせてしまえ。
そうとしか受け取れず、様子見を決め込むことにした。
結果、こまちよは定期的に毛引きを繰り返している。
しかし心配したほど範囲を広げたりはせず、むしろ少しずつ回復しているようだ。


翻って自分はというと、冒頭の指摘を受けたとおり何かと苛立ってはいる。
何一つ不足のない、客観的には充実した日々を送っているはずなのだが。
恐らくは眠りの質がよくないせいだろうとは思うが、医者に言うほどの症状はどこにもない。
ごく漠然とした不安を吐き出したくなることはままあるものの、たいていは飲み込んでいる。
自覚しているのはたった一度だが、言う相手を間違えたのが悔やまれてならないからだ。
普通の人は、大人はどうしているのだろうか。

見えない苦労と見える皮肉

中国語には繁体字と簡体字がある。
前者は昔からある漢字で、後者は文化大革命の絡みで発明された大陸独自の文字だ。
情報処理の点から言うと、前者はBig5、後者はGB系の文字コードが使われている。
文字コードが違うということは、パソコンから見て両者が違う代物だということを意味するのだ。
ところが中国語に使われる文字セットはUnicode準拠のため、両者を包摂している。
つまり、同一の表に別の文字として登録されているのだ。
例えば「経」には7D4C、「经」には7ECFとコードがつけられている。
簡体字を読める人の目にはどちらも同じ(意味の)文字だが、機械はそう思ってくれない。


枕が長くなった。
某案件でややこしい原稿が出てきたのだ。
・「簡体字」と発注されたにもかかわらず、文字がどう見ても繁体字。
・字体は大陸で広く使われている「SimSun」がほとんど。
・いずれの文字コードで作成されているのか知る術はない。
これら三点は、普通の人から見て何ら問題にならないことばかりである。
私の場合どこが普通でないのかというと、手元に同一顧客の過去訳を持っていることだった。
過去訳は簡体字で「SimSun」表記の原文だったものが蓄積してある。
同一顧客の過去訳があれば用語や言い回しをそちらに合わせて翻訳を進めるのが常。
ところがいざ検索しようとすると、上記の理由で引っかかってくれないのだ。
それでも用法や前後の表記を覚えていればどうにか探し当てることはできたのだが。


一晩で訳し終えて早朝に納品したはずが、午後になって「新版」原稿が支給された。
旧版との差異がどこにあるかの案内はない。
それどころか、新版は全編が見るからに簡体字で作成されていた。
つまり、昨晩との差分を取るにも機械的に検索できないということだ。
新旧両方を並べれば、目には同じ箇所がすぐ分かる。
そこで旧版の対訳から訳文を拾ってきて新版の該当箇所に貼り付ける作業とあいなった。
記載順が一致しているうちは、それでもよかったのだが。
書式の保持やら何やらと表面には出ない作業もあれこれ発生。
しかし新版への対応経費は新規訳出分の文字数に通常単価を乗じた金額だけだった。
手間は倍ほど掛かっているのに釈然としないが、商品は成果物なのだから致し方ないか。

互換性と流用

数十枚の原稿ファイルと数百枚の資料へのリンクが渡された。
曰く、リンク先の資料がかなりそのまま使えるので流用するようにとのこと。
どの部分がどれだけ使えるのかという情報はない。
一から訳せと言われても探し出したであろう資料なので、そこから先を探すのは何でもない。
気に掛かるのは、文言をそのまま流用するようにとの指示だ。


原稿は、とある国際規格に対応した中国国内規格。
その国際規格は英語で作成されているが、日本語版「仮訳」が出回っている。
参照/流用するよう指示された資料はその「仮訳」だ。
用語や言い回しの統一のために便利だろうというのは頷ける。
特に複数の翻訳者が絡む案件の場合は統一性が優先されてもおかしくない。
しかし、今回は一本の規格を全て私だけで担当している。
言い回しなどが揺れる心配はあまりしないでいただきたかったところだ。


本件の実作業としては、
1)原稿の内容と合致する文言を資料から探し出し、訳文に流用する。
2)中国ならではの内容などで資料から流用できない箇所は一から訳出する。
3)自分で訳出した箇所の用語や言い回しを流用した文言に合わせる。
となる。
ただし文書の構成上、作業順は2)→1)→3)とせざるを得なかった。
また、規格文書の序文などは他の規格と大差ないので自分の過去訳が使える。
実際に訳出した箇所は分量にして全体の2割もなかった。
やり甲斐としてはたったの2割弱だが、3)の手間には充分すぎる量だったとも思う。


本件の翻訳会社が出回っている文書の流用を是とするのには一応の理由がある。
見慣れた文体のほうが読者は安心できる、というものだ。
意味以外のところで引っかからず読めるようにするには、既存の文を使うのが早道だと。
「それを分かって呑んでくれる人って少ないんですよ」と社長に言われた。
それはそうだろう。
正直、心が痛む。
誤解なく通りの良い文を目指して自ら訳出してきた箇所を、
他人の足跡に合わせてほぼ機械的に「修正」する作業が続くのだ。
そこに善悪の判断は挟まない。
発注者からの指示であり注文なのだから。
流用箇所で変更を加えたのは、ほんの「てにをは」程度。
用字の揺れもいくつか見つけたが、敢えてそのまま適用した。
そうしておいたほうが後工程には都合がよかろう。


反面、この手法でもたらされた富もある。
気持ち悪いほどの生産性だ。
一から訳出したら丸三日はかかりそうな分量が、一日弱で終わってしまった。
ただ、この生産性が常時あると期待されても困るので、まだ納品はしていない。