そこに何もなくても

このところ日記が叙情的なものばかりになっているが。
感情の動きを記録できるようになったというのも進歩と思って綴ることにする。


「心がきれいだったころの自分を思い出す」というつぶやきを目にした。
そんなことを言える人はまだ心がきれいであるに相違ないのだが、果たして自分にはあったか。
なかった気がする。いや、まだないのかもしれない。
閉ざしていて動かさない心にきれいも何もあったものではない。
あるかないかすら疑わしいようなもの。
それでも、その当時からの友人も数人ながらいてくれる。
最近また一人、旧友がついったーに現れた。
同業でも愛鳥家でもない人はほとんど見ていないのだが、彼女は外せない。
何かの情報源になるわけでもなく、慰め合うような関係でもないのだが。
恐らく本来の友人関係なんてそんなものだろう、と今なら納得できる。


少しでも心というか社会への目を開くと、さまざまな人間関係ができてくる。
定義ができている関係、既存の定義にあてはめられる関係ばかりではない。
名札を作って貼ることで整理できるものもあれば、そうでないものもある。
整理したら終わってしまいそうなものも。
対人関係に限らないのだろうが、起点はやはり自分の眼差しなのだろうと思う。
直視するばかりが正しいわけでもないが、遠くから眺めるだけでは分からないことも多い。
本来ならそういう整理は青年期の葛藤を経て身につけられるものかな、と他人事のように思うなど。

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