商店街の中でたこ焼きも扱っている。小倉100円也。
よくある大量生産型だが、実は一匹がかなり大きい。

価格と大きさで想像は付いたが、あんは少なめ。
ういろう部長をして「ベーキングパウダーの味がする」と言わせしめた一品。
多くは語るまい。
サザエうす皮たい焼
大丸京都店の地下に立地。小倉140円也。

焼き上がり商品の保管風景が面白い。
重なって湿気るのを防いでいるのだろうか。

注文したら炙り直してくれた。
うす皮の名に恥じず、中のあんがところどころ透けて見える。
生地はほんのり甘く、とてもパリパリしていた。
これだけあんが入っていても生地が湿気た感じがしない。
あんは適度にねっとりしており、水っぽくも粉っぽくもなかった。
生地が甘いだけに、あんがもう少し甘さ控えめでもというのは贅沢か。
亦タ楽シカラズヤ
「心配してたんですよ。どう声をかけたらいいのか分からなかったんですが」
彼女は笑顔だった。
それだけで全ての気苦労が救われた気がする。
同業つながりの友人が東京から出てくるというので、京都で落ち合って川床で会食とあいなった。
曇天のせいか黄砂のせいかすっきりとした景色ではなかったが、意外と快適な鴨川。
どうせなら京都らしく、という話になり、京会席弁当のミニコースをつつく。
冒頭のとおり、時候の挨拶でもなく近況の交換でもない、少々もやっとした話ばかりしていた。
「やっぱり見かけないと心配するし、久々に見つけて安心したんです」
該当者は私だけではない。
しばらく「つぶやき」がなかった仲間内を彼女はそっと心配していた。
だったら直接そう伝えればいいのに、と答えてしまったが、そうもいかないのは承知している。
お互い悪意がないのは前提として共有しているので、それも笑って流せた。
それでちょうどよかったのだと思う。
事前に聞いていた予定はあらかた済んでいるとのことで、些か拍子抜けした。
冗談半分に鯛焼きのハシゴでもしようかと言い出したら、瓢箪から駒で実現することに。
折角の京都なのにそれでいいの?と念を押したが、折角だからそれでいいのだという。
京都観光ガイドブックも持参していたし、観光マップも手元にあるのだが、敢えて。
それも滅多にできることではないねということで、歩いて一軒目に向かった。
(鯛焼きについては別項)
地下街やら店内やらを歩いていて、方向感覚に感心される。
地図を子細に読み込まず、自分の中の座標軸で歩いているのだと答えて更に驚かれた。
言われてみれば確かに、そういう感覚の持ち主は限られているかも知れないが。
地下鉄四条駅と阪急烏丸駅の改札を間違えたりしたので、偉そうなことは言えない。
特に気にすることもなく笑い流し、わざわざ地下鉄を乗り継いで次の鯛焼き屋へ。
ぶつくさ言いながら鯛焼きをかじっていたら、流石「鯛焼き部長」だと笑われた。
「鯛焼き部」の創設者に失笑を買っていては世話はない。
鯛焼き屋は3軒メモしてあったのだが、2軒目のものが重量級だったためハシゴは中座。
二条城に行こうか北野天満宮にしようかと歩きながら相談たが決まらないうち結構な時間に。
ご主人と合流する待ち合わせ時刻が決まっていないと聞き、京都駅へ行っておくことにした。
JR京都駅ビルの、その名も「京都茶寮」で時間調整。
選べる生菓子のうち二つがういろう素材のものだったので、一つずつ注文して半分こした。
「ういろう部長」は「感激~」と言うなりにこにこと黙って即座に完食。
「鯛焼き部長」と違って蘊蓄をたれる趣味はないらしい。
返す返すも自分の言動が恥ずかしくなる。
「いいじゃないですか、愛すべきキャラってことで」
いいんだろうか、その言葉に甘えて(浮かれて)…とりあえず照れている。
永沢寺
三田市の永沢寺(地名はエイタクジ、寺社名はヨウタクジ)に行ってきた。
芝桜が丘を埋め尽くすという「花のじゅうたん」観光が主目的。
三田駅からバス一本と聞いていたので気軽に出かけたところ大失敗。
この連休中は臨時バスが出ているが、今日は平日なので乗り継ぎが必要とのこと。
乗り継ぎがあるまではよかった…が、まさかの待ち時間90分。
ターミナルかと思っていたバス停にはターミナル施設どころか対面の標柱さえもない。
素直に待っていては現地観光の時間がなくなりそうだったので、タクシーを呼んだ。
電話から15分ほどでタクシーが現れ、乗車10分ほどで現地へ。
平日だからなのか、場所柄そうなったのか、見物客はまばらで若い人となると皆無。
犬を連れて入園していた人々が相対的に…といったところだった。
肝心の芝桜はと言うと、ところどころ地面の被覆が見える微妙な密度。
確かに複数の品種があって興味を引きはしたのだが、期待したほどの規模がなかった。
むしろ惹かれたのは岩ツツジ。
道中の山肌に見られたものと同じ青紫も透明感があってよい。
園芸品種なのか、紅が差した花色のものもあった。
「丹波の焼き栗」をおやつに園内のベンチで休憩。
面白い色のムスカリが植えてあった。
帰りのバスまで時間があるということで近接する牡丹園も覗いてみたが、こちらはさっぱり。
例年なら今が見頃のはずなのだが、一部の早咲き品種しか咲いていなかった。
しかもなんとなく貧弱。
期待もせず立ち寄った永沢寺そのものの植栽が一番よかったというのはどういう皮肉か。
曹洞宗で総持寺の次という高い序列の力なのか、敷地内全体の手入れが行き届いている。
百日紅の新芽。
標高が高いためか、八重桜がまだ三分咲きだった。
ちょっと上着の襟を立てたくなる風が吹く中、桜の風情を堪能。
しっかりと深呼吸できたので、よしとする。
匠のこだわりだんご たい吉
店名のとおり、団子屋なのだが鯛焼きも扱っているお店。小倉140円也。

生地は塩気が強く、南部煎餅に近い味わい。

写真が悪いのではなく、本当にこんな最中のような色だった。
購入時もう冷めてしまっていたのだが、存外ぱりぱりしていた。

あんは全体にたっぷり詰まっていた。
甘さは控えめ、食感がややもそもそ気味。
団子屋の小倉あんがこれでいいのか。
何でも屋の専門性
手空きの時間には、本を読むことにしている。
専門性を高める、という言葉があるが、特定分野の専門知識を得るのもそのひとつだろう。
とは言え私に回ってくる原稿は毎度のように異なる分野だったりする。
軸足を置けるほどまとまった量で来る分野はない。
そこでまずは「浅く広く」様々な分野の本を乱読することにした。
手始めに高校や大学の教科書を手に取ったのだが、いまいちしっくりこない。
どうも教科書というものは講義の速さでじっくりと読み込むようにできているようだ。
予習復習をまともにやっていなかったツケなのかもしれないが。
どうしたものかとつぶやいたところ、同業の先輩からナツメ社の入門書を薦められた。
確かに、全く知識のないところから独習するのだから入門書を探すのは合理的だ。
何冊か読んでいるうち、ふと日刊工業新聞社の本に目が行ってこちらを気に入った。
その名も「今日からモノ知りシリーズ トコトンやさしい○○の本」!
○○には水から太陽電池まで、かなりいろいろなものが入る。
どれも確かに見やすく分かりやすい。
元より一つひとつを完全に覚え理解するつもりではないので、見やすさは重要だ。
基本的な語彙とその文脈が何となく身につけば幸い、ぐらいの気持ちでいる。
機械、ねじ、表面加工、非鉄金属などと読んでみたが、各者のつながりが見えて面白い。
思いがけず復習になってみたり、構造が立体的に見え始めたりする。
職業柄か、言い回しや誤植が気になってしまうのはご愛敬。
150枚前後の本で10枚ぐらいには誤植が見つかる。
てにをはの抜けや間違いならそれでも看過できるのだが、専門用語となると問題だ。
「トップ」なのか「トープ」なのか、検証したくなってしまう。
何しろ知らない単語が相手なので、覚えるなら正しい方をと身構えてしまうのだ。
一方でシリーズとしての統一感が保たれていることには素直に敬意を表したい。
内容ごとに著者が違いながら、ほぼ同じ感覚で読み進めることができる。
だからこそ内容のつながりや重なりが分かりやすいのかもしれない。
編集者の介在価値、実力も捨てがたいものだと実感した次第。
浅く広い各分野の知識と言うより、分かりやすさのこつのようなものが見えてきた気がする。
お勧めはできない
震災の翌日か。連絡手段としてついったーを母に勧めてはどうかという話が出た。
フレッツADSLが半月ほど不通で実現不能だったのだが、復旧した今も勧める気はない。
ただでさえ概念の説明がややこしいのに、それだけの魅力を感じないからだ。
母は携帯ネットに手を出さないだけで、いわゆるネットリテラシーが低くはないと思う。
むしろ震災後もまめにブログを更新していて頭が下がるほどだ。
メールも検索も当然できるのだから、操作方法を教えるのに骨が折れる心配はしていない。
何が気がかりかと云えば、そこに流れているものそのものだ。
「つぶやき」は情報だったり感情の吐露だったりと、内容が安定しているものではない。
まあ井戸端会議がネット上に移行しただけのものと思えば当然ではあるのだが。
ただ、言わば第三者である私でさえ一見して傷つくような「つぶやき」を彼女に見せたくはない。
本人が望むのであれば、敢えて阻止しようとは思わないが。
玉石混淆で、私の見る限り「玉」の少ない「つぶやき」の山は、しかも棘だらけだ。
誰かに刺さるのは見え見えで、誰に刺さっても誰も嬉しくなりそうにない棘が充満した山。
敢えて登ってみても、たいした見晴らしは得られないだろう。
むしろ世間が疎ましくなるだけだ。
「な~んだ、みんなパニックなんだね♪ 大変なのは私だけじゃないんだ、いっしょいっしょ」
などと喜べる神経の持ち主がそうそういるとは思えない。
しかし、そうでない人が冷静に情報を拾ったり、まったり会話できたりするかというと疑問だ。
だいぶパニックが沈静化した今なら、あるいは可能かもしれない。
そういう仲間がいれば、であるが。
残念ながら、仲間の作り方までは教えられない。むしろ私が知りたいほうなので。
だが、ただ情報を拾うだけなら自分で検索したほうがよほどましな気がしてならない。
そこに流れている情報の真偽はどのみち検証を要するものがほとんどだからだ。
本題の「連絡」機能についてもやや疑問がある。
伝えたい相手に連絡が取れているかいないかを確認する術がない。
電話のような即時双方向性がないからだ。
一方的に近況を伝えるには適しているのかもしれないが、その目的ならメールでこと足りる。
逆に、例えば私の近況を知りたくて覗いた時に私が何も書き込んでいなかったら?
上述の棘だらけと同様、無駄な不安を煽るだけのような気がしてならない。
特に何もしてやれないのに、せめて余計な心配はさせないでおかねばと思う次第。
震災の翌日か。連絡手段としてついったーを母に勧めてはどうかという話が出た。
フレッツADSLが半月ほど不通で実現不能だったのだが、復旧した今も勧める気はない。
ただでさえ概念の説明がややこしいのに、それを補ってあまりあるだけの魅力を感じないからだ。
母は携帯ネットに手を出さないだけで、いわゆるネットリテラシーが低いわけではないと思う。
むしろ震災後もまめにブログを更新していて頭が下がるほどだ。
メールも検索も当然できるのだから、操作方法を教えるのに骨が折れる心配はしていない。
何が気がかりかと云えば、そこに流れているものそのものだ。
「つぶやき」は情報だったり感情の吐露だったりと、内容が安定しているものではない。
まあ井戸端会議がネット上に移行しただけのものと思えば当然ではあるのだが。
ただ、言わば第三者である私でさえ一見して傷つくような「つぶやき」を彼女に見せたくはない。
本人が望むのであれば、敢えて阻止しようとは思わないが。
玉石混淆で、私の見る限り「玉」の少ない「つぶやき」の山は、しかも棘だらけだ。
誰かに刺さるのは見え見えで、誰に刺さっても誰も嬉しくなりそうにない棘が充満した山。
敢えて登ってみても、たいした見晴らしは得られないだろう。
むしろ世間が疎ましくなるだけだ。
「な~んだ、みんなパニックなんだね♪ 大変なのは私だけじゃないんだ、いっしょいっしょ」
などと喜べる神経の持ち主がそうそういるとは思えない。
しかし、そうでない人が冷静に情報を拾ったり、まったり会話できたりするかというと疑問だ。
だいぶパニックが沈静化した今なら、あるいは可能かもしれない。
そういう仲間がいれば、であるが。
残念ながら、仲間の作り方までは教えられない。むしろ私が知りたいほうなので。
だが、ただ情報を拾うだけなら自分で検索したほうがよほどましな気がしてならない。
そこに流れている情報の真偽はどのみち検証を要するものがほとんどだからだ。
本題の「連絡」機能についてもやや疑問がある。
伝えたい相手に連絡が取れているかいないかを確認する術がない。
電話のような即時双方向性がないからだ。
一方的に近況を伝えるには適しているのかもしれないが、その目的ならメールでこと足りる。
逆に、例えば私の近況を知りたくて覗いた時に私が何も書き込んでいなかったら?
上述の棘だらけと同様、無駄な不安を煽るだけのような気がしてならない。
特に何もしてやれないのに、せめて余計な心配はさせないでおかねばと思う次第。
鳴門鯛焼本舗
天然鯛焼きを標榜するチェーン店。「黒あん」140円也。
白あんがないのに黒あんと名付けるのは些か高級感を損ねる気がする。

注文時にはいくつか焼き上がっていたのだが、予約客がいたらしく軒先のベンチで待つことに。
ちなみにこのベンチ(男性がいないほう)、がたついていた。

一匹ずつ焼き上げる製法の割に薄皮ではないが、ところどころあんが透けて見える。

このあんが想像以上に個性的だった。
甘さ控えめはともかく、何ともほくほくした食感。
なかのひとのはなし
某メーカー社内翻訳者という立場から語るという面白い話を聞いてきた。
すこぶる面白かったのだが、生々しい内容はあちこち角が立ちそうなので割愛する。
2月に東京で行われたセミナーの内容とも重複しているそうなので、
個人的に気になったことだけ、備忘がてらまとめようと思う。
講師の所属先は企業集団のマニュアル類制作部門「機能会社」。
印刷会社、翻訳会社、個人翻訳者と取引関係にあるという。
特に重要な取引関係は印刷会社とのものであり、翻訳会社はさほど重視されていない。
そもそも「仕事としての翻訳」が企業集団全体として重要な地位を占めていないのだそうだ。
まあそれはそうだろうと思う。
やや意外だったのは、グループ内企業の翻訳が何でもそこへ発注されているわけではないこと。
遠くの「機能会社」を通じることなく、自社近郊の翻訳会社を使う場合もあるのだそうだ。
そうして作られていった訳文の改版が「機能会社」に出されると悩ましいというのは想像に難くない。
差分だけを訳出する場合、該当箇所の対訳を別途管理しておく必要が出てくる。
具体的には翻訳メモリに放り込んでおかねばならない。
放っておくと原稿の注釈や赤字として書き込まれた差分が一人歩きしてしまうからだ。
翻訳メモリの管理というのが社内翻訳者の業務としては大きいのだが、やはり面白くはないそうだ。
管理方針の文書化やら引き継ぎの手順化やら、管理のための管理がそのうち要るのだろう。
一致率の数字だけを追うと痛い目に遭うといった失敗談もあった。
社内翻訳者に必要なのは翻訳実務能力よりプロジェクト管理能力と作文力。
確かに自社と外部翻訳者/翻訳会社をとりもつ立場であるからには管理能力が要るだろう。
そして誤解なきよう本来の読者に伝わるよう文を修正する能力。
ごもっともではあるが、会社員の能力そのものだなというのが正直な感想である。
まるで立場の違う個人翻訳者に最も頷きやすかったのは「信用」の重要性。
品質・価格・納期の三大要素よりも信用のほうが採否に関わるのだという厄介な命題だ。
三大要素は必要条件であって十分条件ではない。
では「信用」はどうするべきなのかと言うと、答えはない。
答えがないのが答えだ。
