テレビ番組の題名に「どや顔」が出たと思ったら、今度は雑誌の見出しに「どや服」だとか。
この用法(どや+名刺)を肯定的に使う人達の気が知れない。
響きが下品だと感じるのは私だけなのだろうか。
「どや顔」は、テレビ朝日の定義?によると「古くはしたり顔、得意顔」だそうだが、より強く悪意を感じる。
悪意というより、その顔をしている人を冷たく見下す第三者の視線と言うべきか。
愛着のある(ことに目下の)誰かを形容するならまだしも、いたく失礼な気がしてならない。

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手作りの無形商品

「お願いがあるんですが」と電話。
前回納品分の訳文を自社スタイルに合わせて返すから参照してほしいとのこと。
「どうか気分を悪くされませんように」と丁重に念を押された。
日本語表現そのものにかなり手を入れているので、気を遣ってくれたのだろう。
誤記の訂正ではなく自分の紡ぎ出した日本語そのものが添削対象なのだ。
先にこう断ってもらえたからこそ心穏やかに受け取れた可能性は否定できない。

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雑音

ここしばらくおかしくなっていて、複数の方に迷惑を掛けてしまった。
どうにか情報を入れて対策を考えねばと思いつつ、色々な本を読むが頭に入らず。
人様に悩みを聞いてもらおうにも、最低限の作文すら組み立てられない始末。
焦るばかりでまともな方向に考えが向かず、気づけば振り出しに戻っている。
何かを考え出すのがいけないのは自覚しつつも、「何も考えない」ことすらできずにいた。


部屋の掃除をして一息ついたところで、ふと電子鍵盤が目に入る。
61鍵しかないので本格的な電子ピアノとは言い難いが、音量調整機能がありがたい。
久々に気が向いたので、手で覚えているソナチネを何曲か弾いてみた。
面白いぐらいに、頭では覚えていない。
「あれ、次は何だったっけ?」と思うところは全く続いていかないのだ。
楽譜を探し出してしばらく読み込んでから、納得して弾き直す。
あれだけ煩くて仕方のなかった内言が、そこにはなかった。
譜面を読み取って手指で再現していく間には、ドミソの文字すらない。
頭を動かしても考え事の要らない活動があったとは、かなり新鮮な驚きだった。
きちんとした音楽には整っていなくとも、充分に楽しめている。
やっと、空っぽになってやり直す方法が分かった。
正解は恐らく他にもあるのだろうが、まずは焦らず。
本来の意味でいい音が奏でられるようになれればと、少しだけ思っている。

帰れども

毎年お盆や夏休みの帰省と見聞きするたび悲しくなる。
戦争災害や大規模事故のための嘆きではないので、余りにも小さいが。
もう十年、兄を見ていない。
最後いつだったかを失念していて、また非礼を責められるかもしれないが、いっそ叱ってほしい。
深刻な事情あっての生き別れでも何でもなく、彼は健在である(と母から聞いている)。
私が彼を傷つけたから、姿を見せようとしてくれないだけのことだ。
きっかけは、重要な連絡の遅れだった。
思うところあって慶事を伝えられずにいたのだが、諸事が重なり言わずじまいになったのだ。
あの時きちんと素直に謝れば、こうはなっていなかった。
そんなことを弁解するつもりも正当化できる論拠もありはしないが。
自分に思いつく限り事態をどうにかしようと、何度か手紙はしたためた。
が、内容が歪だったり宛名に誤字があったり、全くの逆効果だったようだ。
宛名に誤字など、客観的にもあり得ない失礼さなので致し方ない。
悪いのは一方的に私だ。
分かっている。
しかし謝ることすら許されない状態で、もう十年が過ぎた。
この上どうしたらよいのだろう。

毛引き

「エリカラつけちゃうよ」と言われ、はっとした。
エリザベスカラー。毛引きや自咬症などの自傷行為を邪魔するための道具である。
鳥類だけでなく犬猫にも使われているらしい。
ただ、発言の主がつけると言っている対象はこまちよではない。私だった。
物理的には全く何もしていなかったのだが、発言がよほど痛々しかったらしい。
半分は分かっていて垂れ流していたものの、やはり周囲に不快だったろうか。


毛引きというのは、鳥が自ら羽毛を抜いてしまうことと解釈している。
一年以上前、それで動物病院のお世話になった。
羽毛が減って驚いたからではなく、出血が見られたので慌てて連れて行ったのだ。
筆毛と呼ばれる未成熟な羽毛は途中で折れると出血を起こす。
鉗子で問題の筆毛を抜き、止血してもらって事なきを得た。
その時の先生の言葉が今も忘れられない。


「最初の原因は分かりません。病的なものではないので心理的な何かでしょうか。
 分かればその原因を取り除いてあげるだけで自然と治るものですが……、
 これね、一度やり出すと気にしちゃうんですよ。
 抜いた羽が生え直してくるのを気にし出すと、何度でも抜きますね。
 止めるには、ですか?
 エリザベスカラーをつけるだけではやっぱり気にすると思うので……、
 苛立っているんでしょうから、頭がぼうっとする薬を出します。
 ただの毛引きなら命に関わることもないので、様子見でもかまいませんが
 どうしますか?」


頭がぼうっとする薬と聞いて、こまちよが気の毒というより自分が悲しくなった。
いらいらするなら、ぼうっとさせてしまえ。
そうとしか受け取れず、様子見を決め込むことにした。
結果、こまちよは定期的に毛引きを繰り返している。
しかし心配したほど範囲を広げたりはせず、むしろ少しずつ回復しているようだ。


翻って自分はというと、冒頭の指摘を受けたとおり何かと苛立ってはいる。
何一つ不足のない、客観的には充実した日々を送っているはずなのだが。
恐らくは眠りの質がよくないせいだろうとは思うが、医者に言うほどの症状はどこにもない。
ごく漠然とした不安を吐き出したくなることはままあるものの、たいていは飲み込んでいる。
自覚しているのはたった一度だが、言う相手を間違えたのが悔やまれてならないからだ。
普通の人は、大人はどうしているのだろうか。

マイペース

先週あたり何かと他者に振り回されるような日々が続いていた。
振り回されて迷惑だと感じるならば自分が毅然としていればいいこと。
特に迷惑でもないならば振り回されているなどと意識しなければ済むものだが。
なかなかどうしてそうも行かず調子を崩していた。
世間様に言うところの三連休でそこそこ復調したので自分のペースなるものを考えてみる。


一般にマイペースというと「ゆっくり」がついて回る気がするのだが、私は例外なのだろう。
「のびのび」でもない。むしろ「かっちり」だ。
意識してゆっくりと時間を過ごすことはできるようになってきたが、それともまた違う。
ことを進めるにあたってゆっくりしていられない性分と言う方が近い。
短絡的で性急というほどではないつもりだが、何事もさっさと進めるのが好きだ。
事前に見積もった工数以内で片付くと気分がいいのは誰でも同じかもしれないが。
ただ、その工数を見積もる手間はしっかり取っている。
あまり厳密に線を引いてしまうと首が絞まるのは春先に学んだので、余裕分も考慮。
その余裕分の「予算」の中で外出したりもできるようになってきた。
何年もこの仕事をしていて恥ずかしい話だが、なかなかできなかったことである。
仕事以外は何でも後回しにしてばかりいたのだ。
たいていはそれで済む程度の案件ばかりなので「え、仕事してたの?」となっていた。
それが、まとまった規模だったり納期見合いで作業量が指定されたりすると話は変わる。
どこまでを何時までに、と線を引いておいて進捗管理をしないと落ち着かない。
そのペースの計算、配分、実行(、再計算)が私にとってのマイペースだと気づいた。
恐らく、似たような業態の人々にとっては当然すぎて意識することもないものなのだろうが。

ぶれない人

鳥仲間と会ってきた。
先週の話をしかけたところ、「ブログに書いてたあれですか?」
何とまあ彼女も読者だった。
どうしたことか、このブログの読者は感想をコメントではなく対面でくれることが多い。
先月も話した相手なので他の近況報告もあるまいと思っていたのだが。
「この一年でだいぶ変わりましたよね」と意外な一言。
色々な物事の捉え方が変わったのはお互い認めるところではある。
「そんな(苦手そうな)相手と接触して、…って心配されるんですが、大丈夫なんですよ」
無理に友達を作ろうとも思わないし、特定の相手を敢えて引き留めることもなくなったという。
特にそうしたい相手ならともかく、そこまで自分が思わないなら、と割り切れると。
「ぶれない人って憧れます」と言う彼女、ぶれていないと思う。
ミクシィやらついったーやらで去っていった人達の話もいくつか聞いた。
片思い状態で親交は成立しないから諦めはするものの、最後にありがとうを言いたかったと。
何としなやかな強さか、と思った。
世の中にはくどく感じる向きもあろうが、私は彼女を支持する。
見習わねばとも思う。
どういう事情で去っていく人とも、交流があったことは事実だから。
親しかった時にかけてくれた言葉には、嘘がなかったと信じられるから。
その時があって今の自分がいるから。
信実というやつか。

言葉ないし自分はどこまで素直か

苦手意識は持っていなかったのだが、センター試験で最低点を叩き出したのは国語だった。
よくそれで合格したものだと大学の同期にはさんざん笑われたものだ。
自己採点では古文と漢文が満点、現代文が恐ろしく悪かったのを覚えている。
つまりは文の「意図」が読めていなかったということだろう。
それが今や日本語を売る商売で食べていられるのだから不思議なものだ。


人の話を鵜呑みにしやすく、何でも字面どおり額面どおり受け取ってしまう帰来がある。
それと裏表で、言われていないことの察しが悪い。
だから「気が利かない」し、人にも好かれない。
…というようなことを刷り込まれてきたような気がする。
断っておくが、誰が悪いのではない。
「お察しください」文化になじめない性分なのだ。
ほぼ何でもかんでも自分の言葉で整理しないと気が済まない。
今でも時々「(そんなことを)分析してどうするの」と言われる。
確かに実用的な分析ではないのだろうし、いちいち失礼なのかもしれない。
恐らく愚痴をこぼすようなもので、線を引ければ少し落ち着くだけのことなのだ。


何でもかんでもとりあえず否定してかかり、悲観的な言葉を投げつける人がいる。
そうした言葉を浴びながら、いちいち真に受けてきた結果なのだ。
真に受けたのは自分の情動であるし、某かの判断が働くべきところだから自分の責任。
しかし未だにその責任が自分に対して負いきれずにいる。
どうしてやったら自分は素直になれるものだろうか。

いろいろはんぶんこ

昼前から大切な人に会ってきた。
親友と称しても失礼ではなかろうが、彼女に言わせると「兄弟」(姉妹ではない)。
予定が詰まっていて多忙だと言いながら、手みやげまで用意してくれていた。
席に着いてから料理が出てくるまで時間があったので、冒頭から物々交換の勢いに。
彼女が赤い鯛焼き、私が白い鯛焼きをとったので、半分こしてしっぽ部分を交換。
示し合わせたかのように作業が順調で、互いに噴き出してしまった。


対面こそ半年ぶりだが、日頃から会話があるので近況報告は特になし。
その行間にあったような、文字にはならないようなところが主な話題だった。
文字にできるほどまとまっていなかったこと、敢えて指摘するまでもないようなこと。
聞いているこちらがこわばるような深刻な事態でも笑いながら流してしまう。
笑いながら流すことに意味があるのは分かっているので、ところどころ一緒に笑った。
とは言え、いちいち文脈を考えて調子を合わせていたわけではない。
お互いに間合いが読めるので、特に意識せずともそうなるのだ。
世代も生活環境もまるで違うのに、何とも不思議なほど、馬が合う。
初めて耳にする話題でも、相づちは「やっぱりね」になってしまってばかりだった。
その状況でこの人だったらこうするだろう、というのがまず想定から外れないのだ。
「そういう性分だからねぇ」と笑いあうことしきり。
悲しい話もいくつか聞いたが、意外と涙は流れなかった。
そうでしたか、そうですね、と頷くことしかできなかったが、それで充分だとも分かっていた。
つまりはそういう間柄なのだ。
彼女に言わせると、私は自己評価が低すぎる。また笑いながら叱られた。
そこだけは意見が合わずとも譲れないそうだ。
買いかぶってくれても何も出ないよ、と私は本気で思っているのだが。
他の人には下にも置かない扱いをされると窮屈で仕方ないのに、ここでは苦笑止まり。
彼女の説得力が秀逸なのか、私が勢いに呑まれているのか。
いずれにせよ楽しいのでよしとする。
「ご近所だったらもっとおしゃべりできるのにね」
「仕事になりませんって」
「そりゃそうだわ、ならないならない」
だいたいそんなことを言い始めると席を立つ時間。
励まそうと思っていたのが、逆に元気をもらいすぎてしまったかもしれない。