そろそろ新しい専門用語辞書を仕入れに行こうかと上海のツアーを物色していたところ。
ツアーの宿泊先候補に見慣れないホテルがあちこち出てきた。
留学していたのが10年も昔になるせいか、頭の中では「上海=虹橋」なので
いまだに浦東地区(=今をときめく国際化地区)の情報がぴんとこないのだ。
外資系の素敵な?ホテルが出てきたので詳細を調べるべく公式ページを検索してみると、
いかにもな英語ページにいかにもな多言語対応。やはりどうも素敵なホテルのようだ。
英語で説明を読むのはしんどいので日本語表示に切り換えたところ、いたたたたたた……。
何も悪くない。間違っていない。恐らく日本人が訳している。だが堪らなく翻訳臭い。
「親しいサービスと居心地良いご滞在はいかがですか。 」
いかがと言われても。
訳した人の気持ちは勝手に分かる、引きつり笑いを禁じ得ない。
似たような文を書いた記憶があるので痛し痒し、他人目線で見るとくすぐったい。
どうしてもホテルの案内文はそうなりがちなのだと思う。
転がっている訳例がそんな感じのものばかりだし、
翻訳会社が細かく指示してくれない限り原文の表現を切り捨てるには勇気が要る。
意訳でカッコヨくしていいのか、ダサくなっても原文に忠実にすべきなのかは常にかなり迷うのだ。
お休みではない地域
日本はお盆休み。商店街のあちこちでシャッターが降りている。
中国は噂によると五輪休み。観戦でどこの会社も営業している場合ではないとか。
そんなわけでさぞや暇だろうと思っていた今週だが、意外にも引き合いは複数もらえた。
米国からと台湾から。
しかも二社とも久々に声を掛けてくれたところなので何だか笑いが漏れた。
すわ失業の危機?!
今週は翻訳業務にいそしんでいたのだが、気になるニュースが入った。
Google人力翻訳センターと、その後の狙いなる刺激的な見出し。
あのGoogleが「Google Translation Center」なるサービスを立ち上げるという。
リンク先では「最初に機械翻訳でざっと訳しておき、翻訳者が最初から訳すのではなくミスを捜していくということになるので、作業がかなり容易になることだろう。」とあるが、そこまでは真に受ける気もない。
少なくとも向こう数年、機械翻訳のレベルは下訳に足りるほどでもないからだ。
それより恐ろしいと思っているのは、「Google Translation Center」に翻訳メモリ機能があるということだ。
Google の言う翻訳メモリとやらが我々の慣れ親しんできたTRADOSなどに対抗しうるものだとすると、
・原文と訳文の対(=対訳)がネット上で曝される
・プロが利用すれば当然、プロの仕事が公開される
・規格やマニュアルなどの定型文書が一部書き換えになっても素人が更新管理しうる
これが普及してしまうと技術翻訳で食べることは不可能に近くなってくる。
報酬の安い中華圏の翻訳者とは競合してもなんとかやってきたが、
無料公開となってしまうと分が悪いどころではない。
クライアント(訳したい原文を持っている人)が無料の内容で満足してしまったら終了である。競合の余地もない。
ただでさえ翻訳メモリを使うように指定された仕事は労力の割に報酬が低い。
競合(翻訳メモリの使い手)が少ないのがほぼ唯一の利点と言える。
現状では翻訳メモリというソフトがまだまだ普及していないためだが、
・難しい(操作だけでなく、概念がややこしい)
・高い(新規に買うと10万はかかる)
という敷居の高さに手を拱いていた翻訳者がどれだけいて、今後どれだけGoogleのそれに食指を動かすのだろう。
そして、訳文を公開することのリスクと翻訳の進めやすさを天秤にかけてどちらが強いのだろう。
「Google Translation Center」にも仕事の斡旋機能はあるようだし、
翻訳業、翻訳業界が滅びることには直接つながらないだろうとは思う。
しかし個人翻訳者は淘汰されていく可能性が濃厚になってきた。
決して自分の仕事に自信がないわけではないが、やはり一抹の不安が拭えない。
こんな日に限って
全ては自業自得、昨今の言葉で言うところの自己責任なのだが。
日曜に旧友の舞台があったので東京に行ったところ、携帯電話の充電コードを忘れた。
珍しいほど携帯電話を使う日なのは分かっていたというのに。
一緒に見に行く友達と待ち合わせたり、夕方に会食することになった別の友達に時間を確認したり。
あくる月曜日は昔いた職場の人々とお昼をご一緒した。
ふとメールチェックしたところ、新しい取引先から引き合いが入っている。
第一報までは携帯から返信できたが、やはりパソコンでネットにつなぎたい。
食後すぐに空港へ向かい、そそくさとラウンジへ。
手持ちのカードで無料だったのはいいが、返したもらったとたんにそのカードを何故かなくす。
しばらく探したが見つからないので、開き直ってパソコンを立ち上げた。
接続していない間にまとめてあったファイルを依頼主に送信すること数件。
届いていたメールの添付ファイルに目を通し、返信をしたためる。
一部の翻訳にとりかかって間もなく、今度はパソコンの電池が切れた。
さすがにラウンジから電気をもらうのも気が引けるので、再びカードを探しつつゲートへ移動。
往路と違って復路は機内が混雑しており、通路側の席になったのでほどなく寝た。
着陸して携帯の電源を入れ直してみると案の定、電池の残量警告が。
しかもそんなときに限って得意先からも引き合いが入っていた。
息も絶え絶えの携帯からいつになく短い返信を出してお茶を濁す。
家に着いたときにはやはり力尽きていた。
自分もたいがい疲れてはいたのだが、納期の都合もあって休む暇はない。
携帯を充電台に横たえて家の電話からカード会社に謝り、やっと日常に戻ると
しばらくかまってやらなかったのが気に障ったのか、愛鳥にギーギー怒られた。
副業らしい副業
とても懐かしい人から電話をいただいた。
非正規社員していたころの上司?だった大学の先生。
向こうの近況を伺うことはできなかったが、
私に仕事をふってくるぐらいなので相変わらずご多忙なのだろうとは思う。
因みに引き合いをいただいたのは、データ処理の仕事。
文系か理系かと言われれば文系の作業だが、翻訳とはほぼ無関係。
二足の草鞋だった頃が懐かしい。
あり得ない商談
Proz.comから流れてきた求人メール。
中国語から各言語への翻訳者を募集しているのだが、
・有資格者限定。
中日翻訳の資格なんてものは少なくとも私の知る限り存在しない。
或いは中国にはあるのかもしれないが。
もしや実績でもどうにかなるか、と思って当該案件の詳細情報を見てみると
・長さ 20万語
一人で翻訳するには少なくとも一ヶ月かかるが、まああり得ない量ではない。
が。
・報酬 675.000 人民元/単語 (81.55 米ドル)
……どう見てもあり得ない。
単語あたり81.55ドルって、20万かけたら1600万ドル?!
そんなにもらったら私、もう廃業しても悔いはないわ(笑)
不覚
昨日までの仕事が手離れし、一時を過ぎても引き合いがないので
どうせ何もしないならばと思い岩盤浴に行っていた。
所要時間二時間のうち浴床にいるのは正味一時間もないのだが、
あがってふと携帯を見たら着信通知。
急いで折り返したものの「ちょうど今その手配を終わったところです」とのこと。
着信から折り返しまでは三十分だったのだが、間が悪かった。
自業自得と言えばそれまでだが……
傍観する仕事
最近、翻訳まわりの副業が増えた。
TRADOSのWinAlign機能で対訳をまとめる作業が発注してもらえるようになったのだ。
ある文書の英語版と日本語版を渡され、「整合ファイル」なるものを作って納品する仕事なので
自分が翻訳をすることは全く期待されていない。
英語版のある段落とその訳文である日本語版の該当段落を文字通り紐付けするだけなのだが、
段落の区切りが英日で違っていたりするので英語力不要とはいかない。
場合によっては前後の段落をひとつに併合したり、逆に文を読点で段落に分けてしまったりする。
うかうかしていると原文にはある繰り返しが訳文にはないといった構造に引っかかる。
したがって校正するぐらいの神経を使って対訳に目を通していくのだが、
他人様の仕事を傍観できる機会はそうそうないので意外と面白い。
直訳過ぎるだろうと思ったり、予想外の対応表現が見事にはまっていて感心したり。
本業の中文和訳には出てきそうにない表現もあったりして、暗記すれば役に立つというものではないが
日頃の翻訳作業を反省するなかなかよい機会になってくれたと思う。
マナーと信仰と葬式仏教
二七日法要に参列?してきた。
聞き慣れているものと宗派が違うせいなのか、経文が殆ど聞き取れない。
ちょうどお坊さんの手元が見える位置に座ったので眺めていると、
まあ聞き取れなくても当然かという文字列が並んでいた。
あれが日本語として聞き取れるセンスの人間はそうそういないだろう。
決してお坊さん本人や施主を侮るつもりはないが、法要の意味が分からなかった。
仏前に供え物を並べ、お坊さんを招いて読経してもらう形式しか理解できない。
故人を偲ぶでもなく法話を聞くでもない。
「あれは亡くなった人との距離を確認するためのお別れ会が何度もあるだけだから」
という解釈をする人もいたが、そういうものなのだろうか。
何度もあるお別れ会に粛々と顔を出すのがマナーということだろうか。
あいにく故人と親しくする暇がほとんどなかった私には、それもいまいちぴんとこなかった。
不謹慎にもよく思うのだが、仏様はあの経文を聞き取れるのだろうか。
古い中国語のような文法で並んだ漢字を日本語の音読みで発音されて、
インドにおわしました筈の釈迦如来に祈りは届くのだろうか。
それで分かっていただけるぐらいなら、日本語の平文口語でも十分ではないのだろうか。
「分からないが何となくありがたがっておこうか」だけで今まで続いている習慣ではないのか。
だとするとそれは仏教ではない土着アミニズムの形ではないかと気になってみたり。
カタカナ表記で外来語が輸入されそのまま使われる文化の土壌は仏教まで遡れるのかと訝ってみたり。
「分からないもの・知らないもの=神秘=ありがたい・かっこいい」が昂じてこうなったのか、
無難に前例をたどるのがよしとする振る舞いそのものが継承されてこうなったのか。
いわゆる葬式仏教なるものの原因は、その理解のなさにあるのではと思った次第。
法話を持たない宗教者と、教典を見ない信者。
しかもわざと両者は理解し合わないのではないかと。「ありがたみ」のために。
たかが「かな」?
Googleニュースで新聞各紙を斜め読みしてふと気づいた。
今をときめく国連事務総長「潘基文」氏の読み仮名が実は複数ある。
私はてっきり「パン・ギムン」で統一されているものだと思っていたのだが
日経では「バン・キムン」になっていたのだ。
気になって「潘基文」で検索してみると、外務省では「パン・ギムン」、JICAでは「バン・ギムン」
そもそも外国語の発音をカタカナで書き取ろうということに無理があるのかもしれないが
人名の読みを検索するときは下位結果まで見て最多のパターンを探さないと、という教訓になった。
幸い中国の人名は漢字表記のまま読み仮名なしで通用することが多いものの、
ごくまれに読み仮名を依頼されることがある。
例えば「胡錦濤」主席はたいてい「フー・チンタオ」なのだが「錦」は「ジン」ではないかと迷うときもある。
しかし、なまじ漢字表記のまま通用してしまっているがゆえに、それどころではなく
実用上「こきんとう」になっている場合が多いのではないだろうか。
滅多に見ないテレビのニュースでは「こきんとう」だった気がする……