何でも屋の専門性

手空きの時間には、本を読むことにしている。
専門性を高める、という言葉があるが、特定分野の専門知識を得るのもそのひとつだろう。
とは言え私に回ってくる原稿は毎度のように異なる分野だったりする。
軸足を置けるほどまとまった量で来る分野はない。
そこでまずは「浅く広く」様々な分野の本を乱読することにした。
手始めに高校や大学の教科書を手に取ったのだが、いまいちしっくりこない。
どうも教科書というものは講義の速さでじっくりと読み込むようにできているようだ。
予習復習をまともにやっていなかったツケなのかもしれないが。
どうしたものかとつぶやいたところ、同業の先輩からナツメ社の入門書を薦められた。
確かに、全く知識のないところから独習するのだから入門書を探すのは合理的だ。
何冊か読んでいるうち、ふと日刊工業新聞社の本に目が行ってこちらを気に入った。
その名も「今日からモノ知りシリーズ トコトンやさしい○○の本」!
○○には水から太陽電池まで、かなりいろいろなものが入る。
どれも確かに見やすく分かりやすい。
元より一つひとつを完全に覚え理解するつもりではないので、見やすさは重要だ。
基本的な語彙とその文脈が何となく身につけば幸い、ぐらいの気持ちでいる。
機械、ねじ、表面加工、非鉄金属などと読んでみたが、各者のつながりが見えて面白い。
思いがけず復習になってみたり、構造が立体的に見え始めたりする。
職業柄か、言い回しや誤植が気になってしまうのはご愛敬。
150枚前後の本で10枚ぐらいには誤植が見つかる。
てにをはの抜けや間違いならそれでも看過できるのだが、専門用語となると問題だ。
「トップ」なのか「トープ」なのか、検証したくなってしまう。
何しろ知らない単語が相手なので、覚えるなら正しい方をと身構えてしまうのだ。
一方でシリーズとしての統一感が保たれていることには素直に敬意を表したい。
内容ごとに著者が違いながら、ほぼ同じ感覚で読み進めることができる。
だからこそ内容のつながりや重なりが分かりやすいのかもしれない。
編集者の介在価値、実力も捨てがたいものだと実感した次第。
浅く広い各分野の知識と言うより、分かりやすさのこつのようなものが見えてきた気がする。

お勧めはできない

震災の翌日か。連絡手段としてついったーを母に勧めてはどうかという話が出た。
フレッツADSLが半月ほど不通で実現不能だったのだが、復旧した今も勧める気はない。
ただでさえ概念の説明がややこしいのに、それだけの魅力を感じないからだ。
母は携帯ネットに手を出さないだけで、いわゆるネットリテラシーが低くはないと思う。
むしろ震災後もまめにブログを更新していて頭が下がるほどだ。
メールも検索も当然できるのだから、操作方法を教えるのに骨が折れる心配はしていない。

何が気がかりかと云えば、そこに流れているものそのものだ。
「つぶやき」は情報だったり感情の吐露だったりと、内容が安定しているものではない。
まあ井戸端会議がネット上に移行しただけのものと思えば当然ではあるのだが。
ただ、言わば第三者である私でさえ一見して傷つくような「つぶやき」を彼女に見せたくはない。
本人が望むのであれば、敢えて阻止しようとは思わないが。
玉石混淆で、私の見る限り「玉」の少ない「つぶやき」の山は、しかも棘だらけだ。
誰かに刺さるのは見え見えで、誰に刺さっても誰も嬉しくなりそうにない棘が充満した山。
敢えて登ってみても、たいした見晴らしは得られないだろう。
むしろ世間が疎ましくなるだけだ。
「な~んだ、みんなパニックなんだね♪ 大変なのは私だけじゃないんだ、いっしょいっしょ」
などと喜べる神経の持ち主がそうそういるとは思えない。
しかし、そうでない人が冷静に情報を拾ったり、まったり会話できたりするかというと疑問だ。
だいぶパニックが沈静化した今なら、あるいは可能かもしれない。
そういう仲間がいれば、であるが。
残念ながら、仲間の作り方までは教えられない。むしろ私が知りたいほうなので。
だが、ただ情報を拾うだけなら自分で検索したほうがよほどましな気がしてならない。
そこに流れている情報の真偽はどのみち検証を要するものがほとんどだからだ。


本題の「連絡」機能についてもやや疑問がある。
伝えたい相手に連絡が取れているかいないかを確認する術がない。
電話のような即時双方向性がないからだ。
一方的に近況を伝えるには適しているのかもしれないが、その目的ならメールでこと足りる。
逆に、例えば私の近況を知りたくて覗いた時に私が何も書き込んでいなかったら?
上述の棘だらけと同様、無駄な不安を煽るだけのような気がしてならない。
特に何もしてやれないのに、せめて余計な心配はさせないでおかねばと思う次第。

震災の翌日か。連絡手段としてついったーを母に勧めてはどうかという話が出た。
フレッツADSLが半月ほど不通で実現不能だったのだが、復旧した今も勧める気はない。
ただでさえ概念の説明がややこしいのに、それを補ってあまりあるだけの魅力を感じないからだ。
母は携帯ネットに手を出さないだけで、いわゆるネットリテラシーが低いわけではないと思う。
むしろ震災後もまめにブログを更新していて頭が下がるほどだ。
メールも検索も当然できるのだから、操作方法を教えるのに骨が折れる心配はしていない。

何が気がかりかと云えば、そこに流れているものそのものだ。
「つぶやき」は情報だったり感情の吐露だったりと、内容が安定しているものではない。
まあ井戸端会議がネット上に移行しただけのものと思えば当然ではあるのだが。
ただ、言わば第三者である私でさえ一見して傷つくような「つぶやき」を彼女に見せたくはない。
本人が望むのであれば、敢えて阻止しようとは思わないが。
玉石混淆で、私の見る限り「玉」の少ない「つぶやき」の山は、しかも棘だらけだ。
誰かに刺さるのは見え見えで、誰に刺さっても誰も嬉しくなりそうにない棘が充満した山。
敢えて登ってみても、たいした見晴らしは得られないだろう。
むしろ世間が疎ましくなるだけだ。
「な~んだ、みんなパニックなんだね♪ 大変なのは私だけじゃないんだ、いっしょいっしょ」
などと喜べる神経の持ち主がそうそういるとは思えない。
しかし、そうでない人が冷静に情報を拾ったり、まったり会話できたりするかというと疑問だ。
だいぶパニックが沈静化した今なら、あるいは可能かもしれない。
そういう仲間がいれば、であるが。
残念ながら、仲間の作り方までは教えられない。むしろ私が知りたいほうなので。
だが、ただ情報を拾うだけなら自分で検索したほうがよほどましな気がしてならない。
そこに流れている情報の真偽はどのみち検証を要するものがほとんどだからだ。


本題の「連絡」機能についてもやや疑問がある。
伝えたい相手に連絡が取れているかいないかを確認する術がない。
電話のような即時双方向性がないからだ。
一方的に近況を伝えるには適しているのかもしれないが、その目的ならメールでこと足りる。
逆に、例えば私の近況を知りたくて覗いた時に私が何も書き込んでいなかったら?
上述の棘だらけと同様、無駄な不安を煽るだけのような気がしてならない。
特に何もしてやれないのに、せめて余計な心配はさせないでおかねばと思う次第。

鳴門鯛焼本舗

天然鯛焼きを標榜するチェーン店。「黒あん」140円也。
白あんがないのに黒あんと名付けるのは些か高級感を損ねる気がする。
110418_01.jpg
注文時にはいくつか焼き上がっていたのだが、予約客がいたらしく軒先のベンチで待つことに。
ちなみにこのベンチ(男性がいないほう)、がたついていた。
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一匹ずつ焼き上げる製法の割に薄皮ではないが、ところどころあんが透けて見える。
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このあんが想像以上に個性的だった。
甘さ控えめはともかく、何ともほくほくした食感。

なかのひとのはなし

某メーカー社内翻訳者という立場から語るという面白い話を聞いてきた。
すこぶる面白かったのだが、生々しい内容はあちこち角が立ちそうなので割愛する。
2月に東京で行われたセミナーの内容とも重複しているそうなので、
個人的に気になったことだけ、備忘がてらまとめようと思う。


講師の所属先は企業集団のマニュアル類制作部門「機能会社」。
印刷会社、翻訳会社、個人翻訳者と取引関係にあるという。
特に重要な取引関係は印刷会社とのものであり、翻訳会社はさほど重視されていない。
そもそも「仕事としての翻訳」が企業集団全体として重要な地位を占めていないのだそうだ。
まあそれはそうだろうと思う。
やや意外だったのは、グループ内企業の翻訳が何でもそこへ発注されているわけではないこと。
遠くの「機能会社」を通じることなく、自社近郊の翻訳会社を使う場合もあるのだそうだ。
そうして作られていった訳文の改版が「機能会社」に出されると悩ましいというのは想像に難くない。
差分だけを訳出する場合、該当箇所の対訳を別途管理しておく必要が出てくる。
具体的には翻訳メモリに放り込んでおかねばならない。
放っておくと原稿の注釈や赤字として書き込まれた差分が一人歩きしてしまうからだ。


翻訳メモリの管理というのが社内翻訳者の業務としては大きいのだが、やはり面白くはないそうだ。
管理方針の文書化やら引き継ぎの手順化やら、管理のための管理がそのうち要るのだろう。
一致率の数字だけを追うと痛い目に遭うといった失敗談もあった。
社内翻訳者に必要なのは翻訳実務能力よりプロジェクト管理能力と作文力。
確かに自社と外部翻訳者/翻訳会社をとりもつ立場であるからには管理能力が要るだろう。
そして誤解なきよう本来の読者に伝わるよう文を修正する能力。
ごもっともではあるが、会社員の能力そのものだなというのが正直な感想である。


まるで立場の違う個人翻訳者に最も頷きやすかったのは「信用」の重要性。
品質・価格・納期の三大要素よりも信用のほうが採否に関わるのだという厄介な命題だ。
三大要素は必要条件であって十分条件ではない。
では「信用」はどうするべきなのかと言うと、答えはない。
答えがないのが答えだ。

素直に

最近やっと少し素直になってきた気がする。
従順であることは簡単だが、意識して素直になるのは難しい。
実は特に意識しなければ造作ないことだった。
できるできないとか考えるからできないとかいう感覚が生じていたのだ。
自分に素直になることはできても、自分に従順になれる訳はない。
従えている「自分」は誰なのかということになってしまうから。
だからなのかは解らないが、誰か/何かに対して従順になることは造作ない。
せいぜい少しの不都合か悲しみがついてくるだけで、目をつぶったままでいることができる。
ただ、目をつぶっていることに疲れを感じると急にむなしさがこみ上げるだけ。
素直でいいのに、と誰かの声がする。
誰?とか考え出したら多分もう素直ではない。
解っているし、気にしなければいいのだ。
少なくとも悪いことではないのだから。

なるほど

さる方から唐突に頂いた『ニュー・アース』読了。
この本の感想文を書くほど愚かしい(著書の意図に反する)行為もないかと思うが。
なるほど。
考えればいいってもんじゃないのね。
思考停止か。
そうね。

下さった方に失礼でないといいが、真剣に読んで実際に感じたことは以上である。
どうも思考停止という言葉を意識しすぎていたらしい。
思考を停止したら精神活動が止まってしまうではないか、と身構えているところがあった。
しかしよくよく考えてみると、いや考えなくとも、止まるぐらいなら気苦労なんてものはないはず。
むしろ意識的に止める時間があっていいのだ。
ただし、無自覚に勝手に止まる、ではなく、意識的に止める、でないと杞憂が現実化しそうだが。
ごく単純に今を生きるということが実はできていなかったのかもしれない。
確かに整理してみるとくだらないほどの過去にだいぶ拘泥していた気はする。
でもそれはそれでいいのだ。
拘泥していたのも整理したのも過去だから。
少しは自分なるものを許せる気がした。
まだまだ分かってもいないのだろうが、多分それはそれでいいのだ。

無題

あの日から、ついったーには半端な優しさと安易な怒りが飛び交っている。
誰が悪いというわけでもないが、ゆえにもどかしく苦しい。
恐らく自分の悪さ弱さがそこに透けて見えるから、気分が悪くなるのだ。
一種の同族嫌悪みたいなものか。
それでも「人」との接触を断ちたくないという気持ちが捨てきれず、
こちらに書いたりそちらを覗いたりという日々が続いている。
見まごうかたなき個人の日記であるここでさえ、書くのを自粛している項目は多い。
まがりなりにも公開される文書である以上、書くべきでないこと。
特定の読者を意識して、書くのを控えること。
逆に、敢えて特定の読者を想定して書いていることもある。
そんなことして何かの役に立つのか、気持ちが伝わっているかは全く分からない。
伝えようとしている/したという自己満足しか生まないだろうか。
自己満足だけでも、あるだけまし。
さしあたって自分の見ている方向が前だろうから。

薄情者の孤独

母から「もう心配ないから気にせず暮らして」とだめ押しされた。
納得できる材料も一応あるので、実家を気にかけつつも日常に戻ろうとは思っている。
仕事が来れば処理するし、手離れすれば本を読んで過ごす。
ここまでは通常どおり。
いかんせん、自分だけではどうしようもないことが意外なところにもあった。
ついったーに戻れない。
技術的には接続できるが、参加できる場も話題もないのだ。
災害情報やそれにまつわる意見ばかりで見える世界の七割ほどが埋まっており、
他愛もない普通のつぶやきができそうにない。
優しい人を更に傷つけるのも、義憤に満ちている人を刺激してしまうのも御免だ。
結局、いつも数分で見るに堪えなくなり画面を閉じてしまっている。
しかし寂しい。
さぞや身勝手で不謹慎なのだろうとは思うが、寂しいものは寂しい。
こういう時こそ、利害のない普通の人と会話したいのだが。
気にしてばかりで何もできない卑小な自分に嫌気が差しつつある。

最低限の充足

営業所止めとは言え、郷里でも宅急便が復活してくれた。
ADSLが使えなくなっている母はもしや知らないのではと思って電話したが、知っていた模様。
だいぶ落ち着いた様子だったので、近況を少しだけ詳しく聞き取ることができた。
・当面の飲み水と食料は、従姉達やご近所の助けで十二分にあること。
 埼玉に避難している隣人が、荷物を取りに戻るついでにお米を置いていってくれたそうだ。
・実家近辺こそ断水したままだが、親戚のところは水道が開通したこと。
 高齢世帯なので断水中は両親が水を届けていた
・営業を再開するスーパーが少し増えてきたこと。
・母の薬を兄(関東在住)が調達して送ってくれたこと。
 その薬が届いたという知らせで宅急便の件を知ったらしい。
「もう大丈夫」と言い切るのは強がりだろうとしても、ひとまず危機を脱することはできたらしい。
半月分の食材と処方薬があれば、物流の回復まで凌ぐこともできそうだ。
目下の問題は断水だけになった。水道の復旧は来月いっぱいかかるらしい。
少しでも足しになればと思い、市の復興資金口座に募金した。
ひとまず自分ができることもひととおり済ませ、それなりに明るい声を聞くこともできて満足。
上を見てもきりがない。まずは満足しておこう。
直接被災しなかった僥倖の上に、これだけ支えてくれる力があったのだ。
それだけでも幸せではないか。