お勧めはできない

震災の翌日か。連絡手段としてついったーを母に勧めてはどうかという話が出た。
フレッツADSLが半月ほど不通で実現不能だったのだが、復旧した今も勧める気はない。
ただでさえ概念の説明がややこしいのに、それだけの魅力を感じないからだ。
母は携帯ネットに手を出さないだけで、いわゆるネットリテラシーが低くはないと思う。
むしろ震災後もまめにブログを更新していて頭が下がるほどだ。
メールも検索も当然できるのだから、操作方法を教えるのに骨が折れる心配はしていない。

何が気がかりかと云えば、そこに流れているものそのものだ。
「つぶやき」は情報だったり感情の吐露だったりと、内容が安定しているものではない。
まあ井戸端会議がネット上に移行しただけのものと思えば当然ではあるのだが。
ただ、言わば第三者である私でさえ一見して傷つくような「つぶやき」を彼女に見せたくはない。
本人が望むのであれば、敢えて阻止しようとは思わないが。
玉石混淆で、私の見る限り「玉」の少ない「つぶやき」の山は、しかも棘だらけだ。
誰かに刺さるのは見え見えで、誰に刺さっても誰も嬉しくなりそうにない棘が充満した山。
敢えて登ってみても、たいした見晴らしは得られないだろう。
むしろ世間が疎ましくなるだけだ。
「な~んだ、みんなパニックなんだね♪ 大変なのは私だけじゃないんだ、いっしょいっしょ」
などと喜べる神経の持ち主がそうそういるとは思えない。
しかし、そうでない人が冷静に情報を拾ったり、まったり会話できたりするかというと疑問だ。
だいぶパニックが沈静化した今なら、あるいは可能かもしれない。
そういう仲間がいれば、であるが。
残念ながら、仲間の作り方までは教えられない。むしろ私が知りたいほうなので。
だが、ただ情報を拾うだけなら自分で検索したほうがよほどましな気がしてならない。
そこに流れている情報の真偽はどのみち検証を要するものがほとんどだからだ。


本題の「連絡」機能についてもやや疑問がある。
伝えたい相手に連絡が取れているかいないかを確認する術がない。
電話のような即時双方向性がないからだ。
一方的に近況を伝えるには適しているのかもしれないが、その目的ならメールでこと足りる。
逆に、例えば私の近況を知りたくて覗いた時に私が何も書き込んでいなかったら?
上述の棘だらけと同様、無駄な不安を煽るだけのような気がしてならない。
特に何もしてやれないのに、せめて余計な心配はさせないでおかねばと思う次第。

震災の翌日か。連絡手段としてついったーを母に勧めてはどうかという話が出た。
フレッツADSLが半月ほど不通で実現不能だったのだが、復旧した今も勧める気はない。
ただでさえ概念の説明がややこしいのに、それを補ってあまりあるだけの魅力を感じないからだ。
母は携帯ネットに手を出さないだけで、いわゆるネットリテラシーが低いわけではないと思う。
むしろ震災後もまめにブログを更新していて頭が下がるほどだ。
メールも検索も当然できるのだから、操作方法を教えるのに骨が折れる心配はしていない。

何が気がかりかと云えば、そこに流れているものそのものだ。
「つぶやき」は情報だったり感情の吐露だったりと、内容が安定しているものではない。
まあ井戸端会議がネット上に移行しただけのものと思えば当然ではあるのだが。
ただ、言わば第三者である私でさえ一見して傷つくような「つぶやき」を彼女に見せたくはない。
本人が望むのであれば、敢えて阻止しようとは思わないが。
玉石混淆で、私の見る限り「玉」の少ない「つぶやき」の山は、しかも棘だらけだ。
誰かに刺さるのは見え見えで、誰に刺さっても誰も嬉しくなりそうにない棘が充満した山。
敢えて登ってみても、たいした見晴らしは得られないだろう。
むしろ世間が疎ましくなるだけだ。
「な~んだ、みんなパニックなんだね♪ 大変なのは私だけじゃないんだ、いっしょいっしょ」
などと喜べる神経の持ち主がそうそういるとは思えない。
しかし、そうでない人が冷静に情報を拾ったり、まったり会話できたりするかというと疑問だ。
だいぶパニックが沈静化した今なら、あるいは可能かもしれない。
そういう仲間がいれば、であるが。
残念ながら、仲間の作り方までは教えられない。むしろ私が知りたいほうなので。
だが、ただ情報を拾うだけなら自分で検索したほうがよほどましな気がしてならない。
そこに流れている情報の真偽はどのみち検証を要するものがほとんどだからだ。


本題の「連絡」機能についてもやや疑問がある。
伝えたい相手に連絡が取れているかいないかを確認する術がない。
電話のような即時双方向性がないからだ。
一方的に近況を伝えるには適しているのかもしれないが、その目的ならメールでこと足りる。
逆に、例えば私の近況を知りたくて覗いた時に私が何も書き込んでいなかったら?
上述の棘だらけと同様、無駄な不安を煽るだけのような気がしてならない。
特に何もしてやれないのに、せめて余計な心配はさせないでおかねばと思う次第。

無題

あの日から、ついったーには半端な優しさと安易な怒りが飛び交っている。
誰が悪いというわけでもないが、ゆえにもどかしく苦しい。
恐らく自分の悪さ弱さがそこに透けて見えるから、気分が悪くなるのだ。
一種の同族嫌悪みたいなものか。
それでも「人」との接触を断ちたくないという気持ちが捨てきれず、
こちらに書いたりそちらを覗いたりという日々が続いている。
見まごうかたなき個人の日記であるここでさえ、書くのを自粛している項目は多い。
まがりなりにも公開される文書である以上、書くべきでないこと。
特定の読者を意識して、書くのを控えること。
逆に、敢えて特定の読者を想定して書いていることもある。
そんなことして何かの役に立つのか、気持ちが伝わっているかは全く分からない。
伝えようとしている/したという自己満足しか生まないだろうか。
自己満足だけでも、あるだけまし。
さしあたって自分の見ている方向が前だろうから。

薄情者の孤独

母から「もう心配ないから気にせず暮らして」とだめ押しされた。
納得できる材料も一応あるので、実家を気にかけつつも日常に戻ろうとは思っている。
仕事が来れば処理するし、手離れすれば本を読んで過ごす。
ここまでは通常どおり。
いかんせん、自分だけではどうしようもないことが意外なところにもあった。
ついったーに戻れない。
技術的には接続できるが、参加できる場も話題もないのだ。
災害情報やそれにまつわる意見ばかりで見える世界の七割ほどが埋まっており、
他愛もない普通のつぶやきができそうにない。
優しい人を更に傷つけるのも、義憤に満ちている人を刺激してしまうのも御免だ。
結局、いつも数分で見るに堪えなくなり画面を閉じてしまっている。
しかし寂しい。
さぞや身勝手で不謹慎なのだろうとは思うが、寂しいものは寂しい。
こういう時こそ、利害のない普通の人と会話したいのだが。
気にしてばかりで何もできない卑小な自分に嫌気が差しつつある。

そして誰もいなくな…るのか?

ついったーを不特定多数が集まる公園に喩えたことがある。
誰もが適当につぶやいていて、何か気になればそこに反応する広場。
実際の広場と違うのは、つぶやきの「音量」に大小がないことだ。
自分が見ている限り、誰のつぶやきも同じ大きさで響いている。


だが、受け取る側で感じる濃淡は、やはりある。
気になっている人のつぶやきは真剣に追ってしまうし、自分への返信は大事なものに思う。
そうしていくうち、ゆるい仲間ができたり、ちょっとした友達が出来たりした…つもりだった。
なのに、そのみんながいない。
正しく云えば「みんな」ではなく、あの人とあの人がいない。
たった数人で、合計してもそれほどの件数にはならないのだが、いないと寂しくて堪らない。
他のみんながどれだけいても、声をかける気になれないでいる。
そして今いなくなっている人々も、似たような心境を抱えて去っていった。
うっすらとした居心地の悪さ、自分だけが場違いなような孤独感。
ついったーに参加する動機は人それぞれで、必ずしも交流だけではないはずだが。
だが、特定の交流が途切れたことで空いた穴は大きい。
画面を閉じても、家を出ても、その穴を塞ぐ術を見いだせずにいる。


ほんの一年前は覗きもしなかった世界。
半年前に熱病のように盛り上がり、冷めてきて訳が分からなくなった。
落ち着いた辺りで戻ろうと顔を出してみたら、戻るべきところなどなくなっていた。
そもそも二次元に居場所を求めること自体が不健全なのだろうが、ではどうしたらよいものか。
ついったーに触れる前の自分に戻れるかと言うと、分からない。
その頃の方が幸せだったろうとも思えないのだ。
自分が誰かに放り出されたのではなく、自分のいる世界から人が立ち去っただけのこと。
…留まる決断をしたわけでもないのに、ついて行くことができなかった。
彼らにとっての私は何だったのだろうと虚しく立ちつくしているだけ。
出て行こうとも思いながら、どこへ行けばいいのかも分からない。


心当たりのある方、ご連絡いただけると泣いて喜びます。

文字通り新鮮

ついったーでコストコの話をしていたら、意外なほどの急展開で連れて行ってもらえることになった。
しかも連れて行ってくれるという人は初対面。
ご家族総出のコストコツアーに向かう途中で私を拾ってくれることになったのだ。
ついったー上では割と親しく、そのうち遊びましょうという話はしていたのだが、実現して正直びっくり。


しかし驚きはそこにとどまらなかった。
ご夫婦+お子さんお2人(小学生と乳児)+私+ダンナの6人だったのだが、
息子さん(小学生)がダンナにべた慣れ。
人間様に「べた慣れ」という表現は甚だ失礼なのだろうが、他に適切な言葉が浮かばない。
ふと見たら手をつないでいる、少ししてまた見たら抱きついている?!
ダンナが子供になつかれやすい人なのは知っていたつもりだったが、まさかここまでとは。
じゃれつきようがエスカレートしてきたので親御さんが声をかけても反応なし。
文字通り店内を引きずり回しながら、夢中でダンナと(で?)遊んでいた。
食事の時もまとわりついて離れようとしない。
「すいませ~ん、ご主人にあんまりにもなついちゃってるみたいで」
「まあ大丈夫だと思いますけど」
「人見知りするところもある子なんですけどねぇ」
と距離を置いてしまう始末。


本当の無邪気さには破壊力がある、と喫驚した。
決して呆れているとか困ったとかいうわけではなく、ただただ感心したのだが。
発達途上の言語感覚を観察するのも色々と新鮮で面白い。
語彙が足りないのかメタ言語そのもので発話していたり、てにをはが合っていなかったり。
興味深い発見が色々あるものだとは思ったが、これが日常となるとそうも言っていられまい。
「全力で相手してやれるから嬉しかったんだろうねぇ」と一仕事を終えた顔でダンナが述懐していた。


本来、私と奥様が知り合いで、買い物がてらおしゃべりでもできればという趣旨だったのだが。
意外にも中国茶の話でご主人と盛り上がってみたり、繰り出される生活の知恵の数々に目を丸くしてみたり。
いつもとは違う刺激と学びに満ちた半日だった。

二次元半の人々

私の東京滞在中に時間を割いてくれたのは、日曜に集まってくれた4人だけではなかった。
月曜の晩に1人、火曜のお昼にも1人、お店の予約までとって出迎えてくれた「弟子」がいる。


この「弟子」というのが私には(私にも?)いまいちよく分からないのだが。
ついったー界隈には何故か4人ほど、私を「師匠」と呼ぶ同業仲間がいるのだ。
呼ぶと言っても普段から二人称が「師匠」だったりするわけではない。
ふとしたときに出てくる愛称のようなものだということは分かっているのだが。
全員が全員、私より年上で業歴も長い人ばかり。
私のごとき若輩者に何を学ぶのかと尋ねると、不思議と全員が「人生」と返してきた。
(私の把握する限り、4人全員が顔を合わせたことはない)
かなり大げさに聞こえるのだが、言葉にするとそうなってしまうということなのだろうか。
実際にお会いして話をする機会があっても、学ぶことがあるのは私の方なのだが。


言いたいことを一方的に押しつけて満足、という人もいない。
心から敬愛するに値する先輩方が、何故か私を「師匠」と呼ぶ不思議。
皆さんに共通しているのは、日々せいぜい100文字の「つぶやき」を深く読み込んでいること。
人を不快にさせる「つぶやき」をしていないこと。
滅多に顔を合わせなくても(初対面でさえ)全くそうは感じさせないこと。
いつまで話していてもお互い(少なくともこちらは)飽きないこと。
何の話をしていても筋が通っていること。それでいて自ら前には出ないでいること。
建設的な言葉をかけてくれること。
そして、敬意を持って接してくれること。


反射的な同情ではない共感というものを教えてくれた人々。
普段は画面の向こう、二次元のような存在だが、実際に話をしても何らずれは感じない。
言葉をひさぐ存在としては正しくないのかもしれないが、語らずとも共有できている文脈がある。
探るような真似をしなくても、心が通じているのが解るのだ。
私から彼らに何を与えられているのかだけは解らず悩ましいところなのだが、
せめて前向きな力をくれた恩だけでも、いつかは倍返しにしたいと思っている。

JTF翻訳祭つぶやき係

20周年記念JTF翻訳祭に参加してきた。
純粋な聴衆ではなく、講師や司会でもなく、ついったー実況担当という不思議な役回り。
何をしたかと言うと読んで字のごとく、講演内容をひたすら実況していたのだが。
内容そのものは落ち着いてからまとめるとして、ことの経緯を種明かししておこうと思う。


今年のJTF翻訳祭は20周年記念ということもあり、新しい試みで行われることになった。
…という計画をひょんなことから耳にしてしまったのが9月の別イベント(PT)時。
仲間数人で昼食に出ようとしていたところ、偶然かそうでもないのか実行委員の一人である河野弘毅さんに声をかけられたのだった。
河野さんは4月に大阪で西日本セミナーの講師を務められた業界の有名人。
間接的にお世話になっている同業者は売るほどいる。
その大御所からおもむろに「手伝っていただきたいことが」と切り出され、目が点になった。
当初は翻訳祭の開催案内をついったーで告知してほしい、という程度だったのだが。
PTでメモ代りにつぶやいていたのが実況ツイートに見えたらしく、翻訳祭でもやってほしいということに。
今年の翻訳祭はメイン会場と分科会に分かれ、5部屋でそれぞれ別内容の企画があった。
ついては5人で実況してもらえまいか、と…5人?
何故か人選まで任されてしまい、とりあえず乗ってくれそうな仲間に声をかけてみることに。
唐突で中身のない申し出だったのにもかかわらず、皆さんすぐに快諾してくれて驚いた。
集まってくれましたよ、と河野さんに報告してさらに驚かれたのは言うまでもない。


事務局とはメールが2往復ぐらいした程度で、特に打ち合わせもなく前日を迎えた。
どうしたものか、と不安やら疑問やらもやもやしていたのだが、幸い5人が集まれることに。
実際は4人が仕事の都合をつけて集まってくれたというほうが正しい。
決して打ち合わせという名目や目的があったわけではなく、「みんなでご飯」だったのだが。
各人の近況やら仕事云々やらにまぎれて、「そうそう明日なんだけど」と話題になった。
あれこれ気にしていては発信できないし、自分のIDでつぶやくんだからのびのびやりましょうということに。
「いっそ失敗したほうが来年以降の人も気楽だよね」は極論かと思うが、楽しかったのでよしとする。


そして迎えた当日、基調講演から実況ツイートを開始するべく開場前に着席。
書記席の隣を確保しておいてもらえたので、難なくPC用の電源にありついた。
インターネット環境はなかったのだが、WiMAX端末を持参していたので事なきを得る。
そこから終日ずっと実況ツイートに没頭しており、とりあえず疲れたというぐらいしか記憶にない。
講演内容はどうにか覚えてはいるが、それこそツイートを読み返さないと思い出せないほどだ。
全文は書き込むなとか文句は書くなとか要求されていたのだが、正直おかまいなし。
構っている余裕は全くなかった。
ついったーなので時折こちらの書き込みに反応が届いたりもするが、流石に返信はほとんどできず。
返信に頭を使っていたらその間に講演が進んでいってしまう。
最後に「以上、メイン会場からお伝えしました!」と書き込んでやっと一息ついた。
分科会に出ている仲間に声をかけてみると、まだもう一講あるとのこと。
顔を見て挨拶ぐらいしようかと思っていたのだが、その気力がなくなっていたので早々に会場を出てしまった。

みんなでごはん

今回の翻訳祭、実は公認?実況ツイートという珍しい形で参加する。
実行委員の方に依頼されて聴講という不思議な事態だ。
会場が5つに分かれているので、私の他にも4人の方が同様に構えてくれている。
全員が9月のProject Tokyoでご一緒した東京近郊の同業仲間。
唐突に人選を頼まれて声をかけてみたら、こちらも驚くほどすんなりと快諾してくれたのだった。
翻訳祭前日である今日、その皆さんと夕食をご一緒できることに。
各人かなりご多忙だとは聞いていたので、まさか全員が集まれるとは思わず望外の喜び。


待ち合わせ場所に行くと、既に2人が立ち話をしていた。
顔を見るのはちょうど3ヶ月ぶりなのだが、お久しぶりという感じもなくごく自然に合流。
集合時刻の少し前にはみんな集まった。
幹線道路から少し奥に入った住宅地らしき場所のお店へ、にぎやかに移動。
席を予約しておいたはずなのに、どうもお店の人が人数分の確保を忘れていたらしい。
4人卓に所謂お誕生席を添える対応になったので、そこに座ることにした。
フォークが人数分なかったり、補充を頼むと倍ほど持ってきたり。
みんなでくすくすと笑いながら、仕事関連の具体的な近況を話し合ったりした。
誰もが相当の忙しさの中わざわざ集まってくれていることが分かる。
決して誰も恩着せがましいそぶりはしないのだが。
「わー珍しい、仕事の話してるー」
「じゃいつもは?」
「食べ物の話ばっかり」
全員が知らないというペルー料理。飲み物も敢えて想像が付かないものばかりを注文。
美味しいとか不味いとかではなく珍しい味だった。
写真を撮ってみたり、みんなで味見をしたり。


皆さん唐突に巻き込んで済みませんね、と依頼の経緯をかいつまんで説明し、少しだけ打ち合わせ。
「声をかけてくれなかったら参加しなかったかもしれないです」
「貴重な体験ができて本当にうれしいです」
などとお礼を言われてしまって恐縮した。
実況ツイート自体が翻訳祭としても初めての試みなので、まあのびのびやりましょうということに。
「ちゃんと実況できるのかなあ」
「むしろ最初に大失敗しておいたほうが、後の人も気楽だったりして」
「まずは思い出づくりってことで」
大阪土産を配りながら、ああでもないこうでもないと盛り上がる。
こうして集まって一緒に楽しんでくれる仲間ができて、純粋にうれしい。


わいわいしているうち、お店の人がおまけデザートを出してくれた。
ふと気づくと他の卓がすっかり無人になっている。
時計を見ると22時半。
あわてるでもなく精算を済ませ、やや迷子になりながら駅へ移動して解散。
私の宿泊先と方面が同じ人が1人だけいたので、話し足りなかった分?電車で談笑の続き。
本当に楽しいひとときだった。

東京の片隅で

未明に自宅を出て早朝便で羽田へ飛んだ。
とは言え昼食まで用事はないので、空港ラウンジでしばらく暇をつぶす。
いつもなら満席でもおかしくない時間帯なのだが、日曜のせいかラウンジは閑散としていた。
電源とネット接続があって、清潔なお手洗いが確保されていて、飲み物まである。
東京で一番お気に入りの場所かもしれない。


昼食は、ついったーで最近よく会話するようになった女性と初対面。
ついったーで知り合った人と実際に会うのは初めてなのだそうだ。
せっかくなので近隣の仲間も誘ってはみたのだが、あいにく師走で誰もつかまらなかった。
年齢の近い同性ということもあり、おかしな緊張をすることもなく飲食店へ。
twitcardならぬminicardを持参して、好きな写真のものを選んでもらい名刺代りに渡す。
このminicardは100枚それぞれ違うこま写真が背面に刷られているというもの。
普段こま写真に多くコメントをくれている人だったので、話の糸口にはちょうどよかった。
話題は七割方ペット。うさぎとインコではかみ合わないような、意外とそれでいいような。
現在は派遣社員として社内翻訳の仕事をしているそうだ。
派遣期限が切れたら独立になるか、といった辺りから仕事周りの話もちらほら。
私は言語(市場)が違うので経験をそのまま還元してあげられないが、他の諸先輩方から聞いた話をいくつか伝えてみる。
「なるほど、いいこと聞いた!」と目を輝かせてくれたのが収穫ということにしておこう。