それもこれも私ですが

ついったーでの自己紹介は「鳥好き。翻訳業+某で生活しておりまする」とだけ書いている。
同業者と鳥好きに仲間が欲しいのでその属性は明記しつつも、余分なことは書きたくないからだ。
疑問に思ったら(興味を持ってくれたら)聞いてくれればいいだけのことだとも思う。
すると、皆さん予想外にちゃんと見てくれているらしく、鳥好きに仕事のことを聞かれたり、同業者に鳥のことを聞かれたりする。
決して相手の属性に従って態度を変えているつもりではないが、たまに「あれ、この人こっちだったっけ?」と思うことはある。
業種は違えどフリーランス同士で話が合う鳥仲間もいるし、私より鳥に詳しい同業者もいる。
他愛のない日常会話ばかりしていて、どちらの話題を共有すべき相手だったか分からない人も。
しかし考えてみたら、人間としてそれが普通なのではなかろうか。
旧友相手なら昔話しかしない、などということはない。
そういう「割と普通の世間」がネット上に展開されているのがついったーのような気がしている。
一方で、同業以外の人に「流石プロですね!」と言われると嬉しいような恥ずかしいような。
かれこれ8年ほどこの仕事をしているので、プロと言われただけで照れる段階ではないはずなのだが。

仮想文化祭

昨日はついったー上の同業者達がすごいことになっていた。
一人のつぶやきが次々と作品を呼んで、翻訳川柳が大流行。
私も最初のうちは面白がって連投していたが、それにしてもあちこちから出るわでるわ。
不平不満、愚痴、自嘲がどんどん五七五に切り出されてはつぶやかれる祭り。
よほど溜まってるものがあったのね、という感想もちらほら見受けられるが、それだけではないと思う。
発信(発散)したい気持ちと、いつも(140字)より厳しい字数制限(川柳ルール)とすぐ返ってくる共感の言葉。
そして皆さん言葉が商売なだけに秀逸な作品が多い。
同じ現象を同じ文字数でつぶやいても、詠み手が違えば表現は違う。
どこに焦点が合っているのか、どこを切り取りたかったのか。
中には失礼ながら風情のない切り方の作品もある。
詠まれている心象風景は暗いながらも、笑ってしまえる一句に昇華した作品もあった。
よく考え、よくまとめ、よく表現したものだと笑いながら感心することしきり。
やるよーと声を掛けた人がいるわけでもなく発生し、大流行した、とびきりの祭りだったと思う。

参りました

昨日の日記(ではないか)もろもろをご覧になった皆様、ご心配おかけしました。
とは言え何も間違ったことを書いている訳ではないので、削除せずそのままにしておきます。
自分で思っていたよりも気に掛けてくださる方が多くて、…うまく言葉になりません。
改めて自分の社会性の乏しさと仲間の有り難みを実感した次第です。
呆れられた向きも多いかとは存じますが、どうか見捨てずおつきあいのほどを。

閉ざせる世界

いつものようについったーを眺めていて、急に、全ての会話が遠く思えた。
たくさんの人々で賑わう公園を横目に、一人で通り過ぎるような感覚。
それぞれの会話に気をつければ聞き取れないこともないが、参加できそうな話題もなく。
黙って聞き耳を立てているような自分が、無性に厭になった。
全く当然のことだが、私が参加しなくてもその世界は普通に回っている。
現実と違うのは、発言さえしなければ自分の存在が誰からも見えないことだ。
不気味がられることもなく、通報されることもなく、いつまでも存在し続けることができる。
誰にも気づかれることもなく。
ただ見ているのも虚しくなったので、しばらく画面を閉じてみることにした。


一晩たっても、虚しさが癒えることはなかった。
自分への返信もほとんどなかったが、原因はそこではない。
いつもなら遡ってでも読んでいた発言の主が、大変なことになっていた。
見ていなかったので、当然そんなことにも気づいていなかった自分。
気づいたらすぐに何か声をかけてあげられたかもしれない。
あるいは、まだ話しかける余地はあるのかもしれない。
でも、そうすることに果たして意味はあるのか。
逆撫でしてしまうかもしれないし、傷を広げてしまうかもしれない。
私がその人から見えないのと、どちらがましなのだろうか。
半面、大事な人をかばうことすらできずに、私がそこにいる意味があるのか。


意味もなく存在することが許せない自分がいる。
現実と違って、自主参加の世界だから。
画面の向こうにその世界があるのは確かだが、開かなければ見えず、ないのも同然。
同様に、何も言わない私は誰からも見えず、いないのも同然。
鬱屈した空気をばらまくぐらいなら黙っていようかとは思うものの、それが正しいのかは分からない。
もうしばらく頭を冷やしたら、帰りたいと思えるようになるだろうか。
「…いつまでも悲しみは、悲しいだけじゃないから」
ずっと例の曲が頭を回っている。

みんななかよし

ついったーにはクラスタという概念がある。
大辞林 第二版 (三省堂)によると、クラスター [cluster]:〔同じものの群れ。集団〕
ついったー上のそれもまあ集団と言えば集団なのだが、誰がどこのクラスタなのか誰も定義していない。
ごくゆるい固まりを指しているようだ。
私の場合、翻訳クラスタと鳥クラスタに顔を出している。
いずれにもそれなりに結束や連帯感のようなものがあるのだが、特に集団としてのふるまいは見られない。
恐らく、そこがいいところなのだが。
翻訳クラスタは仕事つながり、鳥クラスタはペットないし趣味つながりである。
(逆に言うと、翻訳クラスタのペットはばらばらで、鳥クラスタの職業はさまざま)
私にとっては両者の性質の違いが面白くもあり、時として苛立つ元になったりしている。


どうしても、仕事の性質上もやもやと湧いてくる不平不満はあるものだ。
しかし何しろ孤独な仕事、本来は愚痴のはけ口など望むべくもない。
ところが、同じことを考え思い悩んでいる同業者は案外たくさんいたことが判明。
ちょこっとつぶやくと、たちどころに同情や同調の言葉が返ってくる。
同業ならではと思うのが「あるある」発言。
独特の快感のようなものがあり、自分もよくやってしまう。
みんなそうなんだね、以上でも以下でもないのだが、これがたまらない。
そして、会話が多く「あるある」を投げ合う間柄の人々は、会って話をしても面白い。
皆さん前向きなので、ほぼ何でも笑って流せるから。
尤も、前向きでない人の発言は読んでもつまらないので読み込んでいないというのはあるが。
見ているだけで励まされるのもありがたいし、自分が誰かを励ませていたらとも思う。
みんなひとりでやっているからこそ、なかよしなのかな。

名残惜しさ

東京の同業者が大阪へ遊びに来るというので、梅田で夕飯をご一緒することに。
元・日本人の素敵なお姉様は背中だけで識別できる姿勢美人。
他国に帰化しているため、「外国」の指す意味が日本だったり欧州だったりして面白かった。
年末に日本を離れるというので、お会いできるのはこれが最後の機会かもしれない。
かと言って特に「これが最後」という緊張感はなかったのだが。


せっかくなので大阪らしいものを、とお好み焼き屋へ。
良くも悪くも繁盛店なので、外で待たずに座れたのはいいが、あまり落ち着ける雰囲気ではなかった。
ともあれ、店員さんが焼き上げるお好み焼きは形からして美しい。
焦げもしない火加減だったのに、意外と早く焼けて少し驚いた。
その間、決してお喋りに夢中だったというわけでもないのだ。
初対面の時に感じていたよりも更に控えめな方のようで、向き合ってみると意外にも無口。
あまり女性と話している感じがしなかった。
食べ終わるか否かぐらいの間合いで店員さんが伝票とお冷やをあらために来た。
退出を促されていると強く感じたので、おとなしく離席して精算。


予定のイベントまで時間がまだあるようなので、地下街へ移動してお茶することに。
仕事の受け方やら量やらの話も多少は聞いたものの、主眼はやはり転居を伴う国際移動。
引っ越し荷物が船便だからゆっくりだとか、搬入先が実は未定だとか。
ビザは要らないが住民登録は要るとか。
全く経験も心当たりもない話ばかりだったので、何から何まで新鮮だった。
そこから先はある意味お決まりの、「ついったーと私」。
仲間のつながりかたが面白いよね、いざ会うと名残惜しくて引きずるんだよねといったところ。
引きずるあまり5次会だとか終電だとか、端から見ていても笑ってしまう。
…などと話していて店を出たら、向かいのシャッターが降りている。人のことは言えない。

自分の立ち位置

セルフブランディングなる言葉が最近よく目に入る。
自分で自分に焼き印を押すとは物騒な。なんて揚げ足取りはさておき。
私は「自分が身を置く社会の中でどのような立ち位置にあるかの認識」と解釈している。
「こうなりたい」「かくあるべき」という目標に合わせて設定してしまうのもあり。
「こう見えるのかな」「こう思われていそうだ」という外からの情報で推測するのもあり。
(推測には必ず自分の意思が入るのでよしとする)
そういう認識を持っておくことが、交流する相手に何らかの信頼感を与えるのではなかろうか。


さて、そこで自身はどう認識しているのかと言うと。実はよく分かっていない。
勤めていた頃の考課面談で聞いた評価、最近ついったーで頂く評価、いずれも実は香ばしい。
よくお世話になっている翻訳会社の方からも、ありがたい言葉を頂いたことがある。
しかし、甘言ではないかと疑ってしまって素直に信じられない自分がいる。
皆さん大人なので、他人をなじるようなことは言葉にしないのだろうが。
悲観主義者なので負の言葉を待ってしまっている面もあるのだろうとは自覚している。
たとえ甘言であったにせよ、それすら言うに値しない相手と認識されるよりはましなはずだ。
例外は完璧な裸の王様である場合だが、それはそれでひとつの幸せなので不問に付す。


現実での評価は「孤独を好む職人」、ネットでの評価は「人の輪の中心」とほぼ正反対だ。
複数人からの声なので、どちらも嘘ではないと思う。
そして、二つの「嘘ではないと思う」を「本当だ」に昇華させる過程が、私の宿題。
安易に回答をひねりだして提出すれば許されるものではない、考える過程そのものが課題だ。
暫定結論として、学生の頃までの評価はほぼ関係ない。
良くも悪くもそこをきちんと認識しないと、社会人としてふるまっていることにならないと思う。

孤独と翻訳と自由業

彼岸を過ぎて狂ったような暑さも鎮まり、ふと過ぎた夏を振り返る。
この夏は、自分にありえないほど、たくさん外出して人と会った。
お会いして話をしてきたのは、主に同業の方々。
個人翻訳者はその定義からして同僚を持ち得ないのだが、皆さん同僚と言っていいのではと思う。
こちらから一方的には、仲間だと思いこんでいるのだが。


仕事をすればするほど部屋に籠もってしまい、通勤先がないので他人と全く会わない生活。
不自然だとは思いつつも、春頃までの三年ほど、そんな日々が続いていた。
ダンナとすら食事中ぐらいしか会話もしないし、外を見てこないので話題すらない。
日本語の鮮度が落ちそうだと危惧しつつも、ここで日記を書くぐらいしか対策してこなかった。
その延長でついったーに指を伸ばしてから、何かがいつの間にか変わってこんなことに。


我ながら鈍いのか全く気づいていなかったが、似たような状況にいる人は結構いたのだ。
業種や業態が同じなのだから、似たような生活を送っていてもおかしくはない。
しかし、何度か出た単発セミナーの交流会では、こんな気持ちになったことはなかった。
仲間がいる
孤独と翻訳業と自由を抱えながら、前向きに歩いている仲間がいる。
それぞれが持つ孤独は、由来も質も違う。だが、どこかしら共鳴するものがある。
それぞれが請ける仕事は、言語も分野も違う。それでも、同じことを悩むことがある。
それぞれが手にする自由は、一見どこも重ならない。それでいて、どこかしら重なり合う。
話題を共有して分かったこと、場を共有して気づいたこと。
それもきっと各人ばらばらなのだが、私の場合、敢えて言語化すれば心強さだ。
(敢えて言語化したところで何が切り落とされたのかは自由にご想像いただきたい)
皆さんにお会いするまで得られなかった感覚であるとは断言できる。

最高の八方美人(当社比)の顛末

PROJECT Tokyo 2010に終日参加、交流会にも出席してきた。
セミナーの聴講内容そのものは、ツイートで吐き出したあれこれを後日まとめることにする。
全体的な感想としては、かなり面白かった。
忘れないうちに書き留めておきたいのは、対人関係と感情の記録。

受付開始の十数分前に会場到着。まずは運営側の顔見知りに挨拶。
勝手が分からずきょろきょろしていると、背後から声がかかった。
昨日お会いした皆さんのうちのお一人。寝不足とは思えない爽やかな笑顔だった。
二人で立ち話をしているうちに、一人また一人と見覚えのある顔がやって来る。
受付から第一講までしばらく時間があるので、休憩室に移動してしばし談笑。
第一講に向かう時、どれを受講するか決めかねていた二人が一緒についてきて並びに座った。
第二講もほぼ変わらぬ面子で並びに着席。
講義が英語で行われていたので、何度か左右の方に助けていただいた。


意外だったのは昼休み。
前述の二人が私と同じ講義に出ていたのは、実は昼食を共にする予定だったからである。
待ち合わせで迷うよりは並んでおくよ、ということで午前の講義を選んでしまったらしい。
その三人でさて昼食に出ようかという段になって、「ご一緒していいですか?」と声が。
昨日お昼をご一緒した別の方が二人、流れにはぐれたようにやってきた。
断る理由もないので合流を受け入れると、更に意外な方向から声が。
何と以前JTFセミナーを受講した際の講師だったお方である。
顔と名前を覚えていてくださっただけで光栄、と言えるほどの有名人。
流石にちょっと不思議だとは思ったものの、まあ緊張して困ることもないかと思って受け入れ総勢六人。
この新顔(失礼!)を皆さんに紹介するや、すぐにうち解けてしまった。
セミナー参加者の殆どが高輪口で団体行動をする中、私の一行だけが港南口へ。
土曜のビジネス街は閑散としているので、駅前のカフェでもゆっくりできるだろうと読んで移動した。
少しだけ不安はあったものの、読みは的中。六人が離れることなく席を確保できた。
初めましてやらお久しぶりやらと名刺が交わされるうち、何故か12月のJTF翻訳祭に誘われる。
何でまた遠方の私を東京に誘うのかと尋ねると、「だって有名人だし、集客力が」…有名人?
本来、私なんぞの数桁上の知名度があるはずの御仁に、有名人だなんて思われているとは驚きだった。
ついったー上でお見かけすることはあるものの、滅多に会話もツッコミもしない間柄だったのに。
昨日の前夜祭(訳あって私は欠席)を案内するページの盛り上がりようを見て、そう判断されたのだという。
正直、開いた口がふさがらなかった。
まぁ狙いがついったー上での広報ぐらいなら、おやすいご用なので引き受ける。
流れでJTF翻訳祭にも参加する運びになってしまったかと思われる。
今年は東京に出すぎだと思っていたのに、もう一度か。
まあ翻訳祭も例年とは違った趣向で、分科会形式になるようなので面白そうではあるのだが。


最終講の後、参加者の過半数が公式の交流会へ。
受付のすぐ傍に見知った顔があったので、そそくさとその隣に詰めて座ってしまった。
どこの通勤電車かと思うほどの人いきれにくらくらしてしまい、ほとんど何も食べていない。
いっそ片隅の席で小さくなっていようかと思っていたのだが、そうは仲間が許してくれなかった。
この日のために用意していたチャイナドレスは披露するべきだと四方から唆される。
やっとのことで人波をかき分けて化粧室へ行き、着替えて戻ると微妙な反応。
軽く後悔しかけたところで、お会いしそびれていた取引先の方が現れた。
日中ずっと見かけなかったし、交流会でも探し出して声を掛けるなんて無理かと思っていたのだが。
席にありつけず迷い歩いていたら、チャイナドレスが目にとまってやって来たとのこと。
ちょっとは目立った甲斐もあったというものだ。
同席者に軽く彼を紹介し、再び名刺が頭上を行き交う状況に。
ふと気づいたら、同席者の顔ぶれが変わっていた。
慌ててこちらも名刺を差し出し、「存じてますよ」と言われて複雑な気分。
私が先日Ustreamに出ていたので、見ていた人は一方的にこの顔を覚えているのだった。
実はその状態を想像するだに耐え難く、前夜祭から逃げ出してしまっていたのだが。


公式の交流会がお開きとなり、何となく四人ほどで固まっていたら、またしても人数が倍増。
「人徳だよ」と笑ってくれる人もあるが、自分の回りに人が集まるというのはやはり慣れない感覚だった。
前から約束のあった人にタロット占いを披露すると、後に続く「お客」が三人。
皆さん物好きねと苦笑しながらも、まあそれぞれ喜んでご納得いただけたようなのでよしとする。
それからしばらく、実は一人としか碌に話していない。
今日は楽しかったよね、という話題のはずが人生論になっていたりしたが、何故かしんみりとはせず。
盛り上がりつつも議論を闘わせるようなことはなく。
何だか旧友に再会したかのように長々と話し込んでいたら、不意に泣きたくなった。
一期一会、というほど儚いものではないし、そのまま馴れ馴れしく夜を明かすという勢いでもない。
適当なところで切り上げて電車に乗ると、一旦しまったはずの涙がちらっと出てしまった。

おともだちがいっぱい

遠足(笑)の初日、始発電車で神戸空港に向かい、羽田への着陸は8時20分。
「無線LAN使えます!」との広告を見て気になっていたリムジンバスに乗ってみる。
結果は惨憺たるものだった。
無線LANはwi2と書いてあるが、FON利用者しか使えないし、電源もない。
wi2.jpg
それどころか、トランクルームを開けてくれなかったので窮屈だった。
文句を言って降りるわけにもいかないので、おとなしくそのまま横浜に向かう。

荷物を分けて半分ほどコインロッカーに放り込み、まずは最初の待ち合わせ。
ついったーで知り合った高校の先輩(!)と「コメダ珈琲」でシロノワールなる名古屋食を試す。
noir.jpg
ミニなのに名刺よりでかいとか、「普通」のってどんだけ恐ろしいんだ名古屋。
先輩はいわゆるモーニング。ケーキ類に心を引かれながらも。
超ローカル話に花が咲くかと思っていたが、意外にも全くの世間話だけで90分ほど経過。
次の待ち合わせの相手から先輩の携帯に着信があったので、駅へ戻ることに。

正午に駅で待ち合わせたのは何と総勢12名。
ちょっと中華街でお昼しましょ、と言う話なのがいつの間にやら盛大な規模になっていた。
おのぼりさん丸出しで水上バスで山下公園へ移動。
seabass.jpg
一人が引率の先生さながら先導してくれたので、ばらばらと続いていく謎の一団。
テレビの撮影現場らしきところに通りがかって追い立てられたり、「赤い靴」の少女像と写真を撮ろうとしたら逆光だったり。でも笑いは絶えない。
それにしても日本人ってどうして銅像を見ると撫でるのだろうか。
御利益にあやかって異人さんに連れられて行っちゃいたいのだろうか。


そして本日の目玉、「招福門」の一室を借り切っての宴。
自己紹介なんて必要なのかい、という和気藹々っぷりながら、一応ということで各人に質疑応答。
本人の回答より第三者の邪推のほうが面白かったり、それでオチがついてしまって次の人に行ったり。
まさかそれだけで二時間半が経過してしまうとは、誰も思わなかったに違いない。
ごく丁寧に婉曲に、店の人から追い立てられたのは四時。
当然のように、個室以外の席はすっからかんだった。
どうせ他の人がいないのだから、ということで?お店の人に全員の集合写真を撮ってもらう。
まだ見せてもらってはいないが、きっと相当いい笑顔だっただろう。


さてお茶に移行するか、という間合いで合流の連絡が入った。
家事があるので帰るという人と入れ替わりで、新しく一人が輪に入る。
ジョナサンのテーブルでも5-6人しか着席できないということで、席替えしつつ彼女と談笑。
ドリンクバーだけで二時間弱が経過。
みなとみらい線で横浜駅に戻り、渋谷直行組と別れたのは私ともう一人。
コインロッカーから荷物を回収して宿に向かう途中、ご一緒してずっと喋っていた。


チェックインを終えて部屋に入った直後、どっと疲れが出て我ながら驚く。
スリッパに履き替えたが最後、脱いだ靴をもう履きたくなくなっていた。
だらだらとついったーを眺めてはみたものの、日中分までの遡及はできず。
「品川についたよー」と携帯に連絡をもらい、あわてて駅まで駆け下りた。
意外にも品川近辺のレストランは混雑気味。
昼がしっかりたっぷりだったので晩ご飯は適当でよかったのだが、ゆっくり座って話せる場所がほしい。
いつもなら空いているお店に行ってみると、運良く席が残っているという態だった。
何も考えずとっぷりと腰掛けてしまい、お冷やがセルフサービスであることに気づくまで数分経過。
料理を決めて注文したあたりで、「品川に行くよー」とのメールが。
高校の今度は後輩が、わざわざ顔を見せに品川まで来てくれたのだった。
もう一人の同席者そっちのけで「まさか東京でこんなに濃ゆい田舎の話をするとは」。
それにしても、私の知り合いは美男美女ばかりで無駄にへこむ。
変な緊張のうち数割はそのせいかもしれない。