日本語では主語を立てず「~と言われています」調の表現が多い。
しかし昨今、誰が言ったのか裏を取るのは意外と簡単になっている。
また仕事などでは発言元によって内容の信憑性を判断することも言わば常識。
切り取られた一部の言葉が跋扈しやすい今日でも「誰が」発信したかには意味がある。
最期のわがまま
父が荼毘に付された。
見えてきたもの
「あー、試練の年なんだねー。あるよそういうこと」先輩は涼やかに笑った。
翻訳の仕事をもらえるようになって10年も経つが、まだまだ初めての経験だらけだ。
思い込みや決めつけで視野を狭めたくはないものの、流儀はできてきた気がする。
追悼
実家のインコ、享年25。
兄の飼い鳥として迎えられたが、兄よりも私よりも長く両親と暮らしていた。
野良猫に掘り返されないよう、深い穴に埋葬されたそうだ。
祈りのようなもの
がんばれとみだりに声を掛けるのは控えている。
どうせ挨拶だから、普通は言われても困らないのかもしれないが。
何となく「がんばれ」と発した時点で他人事として切り離しているように感じるのだ。
しがらんできちゃった
ブログは賃貸住宅、ついったーは街の広場のようなものだと思っている。
フェイスブックはもう少し社交的な側面が強く、駅に近かったかもしれない。
過去形にしたのは、「そこでの自分の存在」を過去にしたためである。
いつもの人
納期まで余裕があるのでもう少し訳文を練ってほしいという主旨のメールが来た。
続けて「これからもお願いしたいので是非ご覧ください」と校正戻りが添えてある。
公園にて
少なくとも見た目にはどこへでも飛んで行けるのに、特定の場所に集まる。
協力し合うこともなく排斥し合うこともなく、ばらまかれる餌を傍若無人につつく。
時には無意味に追われても、適当にあしらって数分後には戻る。
それが合理的だからなのだろう。
ある職人の仕事
ここ数年、日常で出会うサービス業の人々が気になりだした。
親しみを持って交流してみたら何か面白いことが見つかるかもしれない。
カルチャースクール
翻訳学校と呼ばれるものは、及び知る限り学位の取得できる機関ではない。
かつてその外見から「カルチャースクールね」と言われた記憶は今なお鮮明だ。
その時は、ちゃんと勉強しなさいという発破かと思っていた。