それもこれも私ですが

ついったーでの自己紹介は「鳥好き。翻訳業+某で生活しておりまする」とだけ書いている。
同業者と鳥好きに仲間が欲しいのでその属性は明記しつつも、余分なことは書きたくないからだ。
疑問に思ったら(興味を持ってくれたら)聞いてくれればいいだけのことだとも思う。
すると、皆さん予想外にちゃんと見てくれているらしく、鳥好きに仕事のことを聞かれたり、同業者に鳥のことを聞かれたりする。
決して相手の属性に従って態度を変えているつもりではないが、たまに「あれ、この人こっちだったっけ?」と思うことはある。
業種は違えどフリーランス同士で話が合う鳥仲間もいるし、私より鳥に詳しい同業者もいる。
他愛のない日常会話ばかりしていて、どちらの話題を共有すべき相手だったか分からない人も。
しかし考えてみたら、人間としてそれが普通なのではなかろうか。
旧友相手なら昔話しかしない、などということはない。
そういう「割と普通の世間」がネット上に展開されているのがついったーのような気がしている。
一方で、同業以外の人に「流石プロですね!」と言われると嬉しいような恥ずかしいような。
かれこれ8年ほどこの仕事をしているので、プロと言われただけで照れる段階ではないはずなのだが。

紅葉狩り遠足

国保組合のイベントで、宇治の森林公園界隈を歩いてきた。
参加者は事務局の人々を含め総勢27名。
山の肌寒さを心配していたが何のことはない行楽日和で、ゆえに紅葉は進んでいなかった。
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宇治川の透明感が素敵
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一番きれいだったモミジ


知人夫妻も参加していたが、特に固まるということもなく各人が写真を撮りつつゆるい団体行動。
初めてお会いした方や事務局の人々も皆さん気さくで、気まずくなったり恐縮したりということはなかった。
山道だったり階段だったりと変化に富む総行程8.8kmの遠足。
とりたてて写真が好きでもない私ですら携帯カメラを手放せないぐらいなので、皆さん歩きに来ているのか景色を撮りに来ているのかといった勢いだった。
これもデジカメや携帯カメラの普及あってこそかなぁ、とぼんやり思う。


文化芸能国保組合というぐらいなので、参加者(<加入者)の顔ぶれに興味があったのが実は参加の動機だった。
昼食休憩中ひょんなことから事務局の方に参加者名簿を見せていただき興味津々。
文楽関係者、司会業、カメラ関係、デザイン関係…どれが誰だか分からないが面白かった。
人数比率ではカメラ関係の方が多かったように思う。
まあそりゃ翻訳業なんて加入者の時点でそんなにいないわな、と思っていたところ。
「翻訳業の方…元々そんなにいらっしゃらないんですが、ここのところ増えてきましたねぇ」
その経緯を聞いて思わず噴きだしてしまった。ほぼ完全に私のせいだ。
この国保組合、インターネット上で情報を公開していない。
現在ホームページを準備中だそうだが、誰がどう加入できるのか公式情報は流れていないのだ。
なので、先日このブログで紹介した記事を頼りに訪れた同業者が少なくとも3人…。
「あんまりおおっぴらに紹介しないほうがいいですか?」と聞いてみたところ全然かまわないとのこと。
「むしろ健康で若い方が多く加入してくれると安定につながりますし、大歓迎です」とのお墨付きを頂いた。
ただ職域組合なので加入条件を満たす必要が云々。
だからこそ、そういう情報は公開したほうが何かといいのではと思う次第。
実に意外なところで自分の影響力?に気づくなど。

分かっちゃいるけどやめられない(仕事)

もう先週のことになるが、帰省していた。
毎年恒例の、年賀状作成である。
かつては両親も師走に入ってから年賀状を作っていたのだが、近年はこちらの都合でこの時期に。
郷里がさほど寒いはずはないのだが、冷え込みかたが関西とは違うのだ。
しかも、たいてい12月にはあれやこれやと私も多忙になる。
それなら時間が取れる今のうちに、ということで、仕事を調整して帰ったはずだったが。


初日の夕方に副業の打診。業務量だけ聞いても無茶な負荷ではなかった。
実際の難易度は手を付けてみないと分からないこともあり、請け負う旨を返信。
元データは「今晩中に送ります」とのことだったので、まあ次の朝まで何もあるまいと思っていた。
が、夕食後すぐぐらいにデータが届いていてびっくり。


つい、手を付けてしまう。
つい、そのファイルを片付けてしまう。
つい、その続きを…。
つい、両親との団欒を蔑ろにしてしまった。


ダンナは仕事を持ちこまないと割り切って同行していたせいか、夕食後もリビングにいた。
身代わりに置いているようで申し訳ない気もしながら、リビングに出て行く気がしない。
そもそも昔から自分の部屋を与えられていたし、部屋を出る習慣もなかったのだ。
テレビが大の苦手なので常にテレビのついているリビングにはあまり顔を出したくない。
とは言え用があったり声を掛けられたりすれば行くのだから問題はないだろう、と自分では思っていた。
両親だって娘の無愛想な性格ぐらい把握しているはずだ。
と思っているうち3ファイルを納品、だいぶ遅い時間になってしまった。


翌日は午前中に紅葉狩り、夕食には郊外の寿司屋へ連れて行ってもらった。
声がかかれば顔を出すのだ。
しかしやはり、前日同様の「つい」を繰り返し父との会話はなし。
元からそんなにしてないんだってば。


勿論、肝心の年賀状は表書きも含めて印刷を完了している。
初日の午後に素材集を選ぶところから付き合って本文のレイアウトと印刷。
翌日の午後に住所録の整理と表書きの差し込み印刷。
途中でインクが切れたので替えを買うのも付き合った。
私としてはこれで十分だろうと思ってしまっているのだが、ダンナから見るといただけないらしい。
そう言われても、今更いい娘になんてなりたくもないんだよ。

そこに何もなくても

このところ日記が叙情的なものばかりになっているが。
感情の動きを記録できるようになったというのも進歩と思って綴ることにする。


「心がきれいだったころの自分を思い出す」というつぶやきを目にした。
そんなことを言える人はまだ心がきれいであるに相違ないのだが、果たして自分にはあったか。
なかった気がする。いや、まだないのかもしれない。
閉ざしていて動かさない心にきれいも何もあったものではない。
あるかないかすら疑わしいようなもの。
それでも、その当時からの友人も数人ながらいてくれる。
最近また一人、旧友がついったーに現れた。
同業でも愛鳥家でもない人はほとんど見ていないのだが、彼女は外せない。
何かの情報源になるわけでもなく、慰め合うような関係でもないのだが。
恐らく本来の友人関係なんてそんなものだろう、と今なら納得できる。


少しでも心というか社会への目を開くと、さまざまな人間関係ができてくる。
定義ができている関係、既存の定義にあてはめられる関係ばかりではない。
名札を作って貼ることで整理できるものもあれば、そうでないものもある。
整理したら終わってしまいそうなものも。
対人関係に限らないのだろうが、起点はやはり自分の眼差しなのだろうと思う。
直視するばかりが正しいわけでもないが、遠くから眺めるだけでは分からないことも多い。
本来ならそういう整理は青年期の葛藤を経て身につけられるものかな、と他人事のように思うなど。

進路

関西学院大学「言語コミュニケーション文化セミナー・入試相談会」に行ってきた。
「人間の言語本能と文法現象」の講義はとても面白く、夢中でメモツイートをした。
終わってから見直してみると、公式ページにある概要以上のものは出てこないことに気づいたため、ここでは再掲しない。
それから院の概要と在学生によるキャンパスライフ紹介などを聞いて、個別相談会へ。
実は相談会の直前まで、かなりここの大学院に挑戦する気でいた。
言語学って面白い、掘り下げてみたい、あれもこれもやりたい!と思っていたのだが。
いざ「ご相談は?」と聞かれると、実は何も言えない自分がいた。
やりたいこと、研究したいテーマ、進学の目的、どれもまとまっていない。
先生も先輩(?)も決して邪険にすることなく話をしてくれたが、要は心が決まってからにすべきだと。
興味のあることを洗い出して、入門書を読んで、師事する先生を検討するようにとのこと。
言われてみれば至極ごもっともなのだが、その瞬間は少し落ち込んだ。
結局のところ、私のしたいことは恐らくキャンパスにはない。
恐らく、としか言えない散逸ぶりが切ないところだが、まずは入門書を漁るところから始めるか。
「本当にここでお役に立てそうなことがあるなら歓迎しますよ」の一言が耳に痛かった。

名刺

再びUstream出演をすることになり、出向いたはいいが名刺を忘れた。
弁護士先生にお会いできる貴重な(少なくとも初めての)機会なのに我ながら迂闊だ。
頂戴した名刺のアドレスにメールをしたものか、書くことがなくて迷ってしまう。


先生はさておき、初対面の方はもう一人いらした。
進行役の社長がかつて講師を務めたセミナーつながりだそうだが、自称「駆け出し翻訳家」。
話を聞いてみると確かに翻訳業務歴は短いようだが、明らかに私より年上だった。
その方から頂いた名刺に、とりあえず目が点。
見たことのない肩書きが踊っている。
当人いわくお遊びで、ちょっとした洒落でつけたものだそうだ。
なるほど名刺交換そのものを話のきっかけにするには役に立つのかもしれない。
でも私には真似できないなと思う。
名刺で遊び心を表現するのは大人の余裕なのかもしれないが、露骨に遊んでいいものか。
渡した相手が見直した時に「あいつがあれか」と思い出してもらう印象として選べない。
よほど話し上手で相手に溶け込めるなら、うまく使いこなせそうなものではあるが。

仮想文化祭

昨日はついったー上の同業者達がすごいことになっていた。
一人のつぶやきが次々と作品を呼んで、翻訳川柳が大流行。
私も最初のうちは面白がって連投していたが、それにしてもあちこちから出るわでるわ。
不平不満、愚痴、自嘲がどんどん五七五に切り出されてはつぶやかれる祭り。
よほど溜まってるものがあったのね、という感想もちらほら見受けられるが、それだけではないと思う。
発信(発散)したい気持ちと、いつも(140字)より厳しい字数制限(川柳ルール)とすぐ返ってくる共感の言葉。
そして皆さん言葉が商売なだけに秀逸な作品が多い。
同じ現象を同じ文字数でつぶやいても、詠み手が違えば表現は違う。
どこに焦点が合っているのか、どこを切り取りたかったのか。
中には失礼ながら風情のない切り方の作品もある。
詠まれている心象風景は暗いながらも、笑ってしまえる一句に昇華した作品もあった。
よく考え、よくまとめ、よく表現したものだと笑いながら感心することしきり。
やるよーと声を掛けた人がいるわけでもなく発生し、大流行した、とびきりの祭りだったと思う。

参りました

昨日の日記(ではないか)もろもろをご覧になった皆様、ご心配おかけしました。
とは言え何も間違ったことを書いている訳ではないので、削除せずそのままにしておきます。
自分で思っていたよりも気に掛けてくださる方が多くて、…うまく言葉になりません。
改めて自分の社会性の乏しさと仲間の有り難みを実感した次第です。
呆れられた向きも多いかとは存じますが、どうか見捨てずおつきあいのほどを。

閉ざせる世界

いつものようについったーを眺めていて、急に、全ての会話が遠く思えた。
たくさんの人々で賑わう公園を横目に、一人で通り過ぎるような感覚。
それぞれの会話に気をつければ聞き取れないこともないが、参加できそうな話題もなく。
黙って聞き耳を立てているような自分が、無性に厭になった。
全く当然のことだが、私が参加しなくてもその世界は普通に回っている。
現実と違うのは、発言さえしなければ自分の存在が誰からも見えないことだ。
不気味がられることもなく、通報されることもなく、いつまでも存在し続けることができる。
誰にも気づかれることもなく。
ただ見ているのも虚しくなったので、しばらく画面を閉じてみることにした。


一晩たっても、虚しさが癒えることはなかった。
自分への返信もほとんどなかったが、原因はそこではない。
いつもなら遡ってでも読んでいた発言の主が、大変なことになっていた。
見ていなかったので、当然そんなことにも気づいていなかった自分。
気づいたらすぐに何か声をかけてあげられたかもしれない。
あるいは、まだ話しかける余地はあるのかもしれない。
でも、そうすることに果たして意味はあるのか。
逆撫でしてしまうかもしれないし、傷を広げてしまうかもしれない。
私がその人から見えないのと、どちらがましなのだろうか。
半面、大事な人をかばうことすらできずに、私がそこにいる意味があるのか。


意味もなく存在することが許せない自分がいる。
現実と違って、自主参加の世界だから。
画面の向こうにその世界があるのは確かだが、開かなければ見えず、ないのも同然。
同様に、何も言わない私は誰からも見えず、いないのも同然。
鬱屈した空気をばらまくぐらいなら黙っていようかとは思うものの、それが正しいのかは分からない。
もうしばらく頭を冷やしたら、帰りたいと思えるようになるだろうか。
「…いつまでも悲しみは、悲しいだけじゃないから」
ずっと例の曲が頭を回っている。

みんななかよし

ついったーにはクラスタという概念がある。
大辞林 第二版 (三省堂)によると、クラスター [cluster]:〔同じものの群れ。集団〕
ついったー上のそれもまあ集団と言えば集団なのだが、誰がどこのクラスタなのか誰も定義していない。
ごくゆるい固まりを指しているようだ。
私の場合、翻訳クラスタと鳥クラスタに顔を出している。
いずれにもそれなりに結束や連帯感のようなものがあるのだが、特に集団としてのふるまいは見られない。
恐らく、そこがいいところなのだが。
翻訳クラスタは仕事つながり、鳥クラスタはペットないし趣味つながりである。
(逆に言うと、翻訳クラスタのペットはばらばらで、鳥クラスタの職業はさまざま)
私にとっては両者の性質の違いが面白くもあり、時として苛立つ元になったりしている。


どうしても、仕事の性質上もやもやと湧いてくる不平不満はあるものだ。
しかし何しろ孤独な仕事、本来は愚痴のはけ口など望むべくもない。
ところが、同じことを考え思い悩んでいる同業者は案外たくさんいたことが判明。
ちょこっとつぶやくと、たちどころに同情や同調の言葉が返ってくる。
同業ならではと思うのが「あるある」発言。
独特の快感のようなものがあり、自分もよくやってしまう。
みんなそうなんだね、以上でも以下でもないのだが、これがたまらない。
そして、会話が多く「あるある」を投げ合う間柄の人々は、会って話をしても面白い。
皆さん前向きなので、ほぼ何でも笑って流せるから。
尤も、前向きでない人の発言は読んでもつまらないので読み込んでいないというのはあるが。
見ているだけで励まされるのもありがたいし、自分が誰かを励ませていたらとも思う。
みんなひとりでやっているからこそ、なかよしなのかな。