引っ越し遍歴

身内には趣味だと笑われるが、引っ越しの理由は都度それなりにある。

独立して半年で都心から関西へ引っ越したのは、大学院が目的だった。
準備室が大阪にあり、キャンパスもその近隣にできる予定だったのだ。
その大学院開設そのものが頓挫したことを知ったのは転居した後。
大学の恩師に尋ねてみたところ、関係者に確認してくれたが。
ともあれ西の実家の近くということもあり、街の居心地はよかった。

4年目の夏、家人が関東へ行こうと言い出した。
彼の作ったサービスで取材の打診が入るようになったからだった。
実際、雑誌やテレビの経済番組などに少しは露出している。
それでもメディア露出には東京(にすぐ出られること)が有利だと。
さりとて「都内にはもう住みたくない」。
東京市部と横浜の郊外を見て回り、秋に横浜の南端へ引っ越した。

横浜の南端は公園もあり海も近く、「いい環境」だった。
麹町には些か遠かったが、半月ほど通うのに支障はなかった。
その上ご近所で、とてもよくしてくれる人にも出会えた。
しかし平穏な日々は1年も続かなかった。
隣の建物から夜な夜な叫び声がしだして、日に日にその時間が延びた。
夜が休めなくとも昼さえ静かなら、と一時期は思っていた。
その昼さえ奪われた。
が、相手が「弱者」なので致し方ない。
家人はできる限りの対応をしてくれたが、それも限界に達した。
「せっかく賃貸なんだから、逃げだそうか」

近所が騒がしいときの逃げ場を確保すべく、横浜の中心部に越した。
ほとんどの用事が徒歩で済む、恐ろしいほど便利な場所だった。
いかんせん、暮らすうち治安が気になりだした。
そこにとどめを刺したのが4年目の猛暑。
物件の制約で仕事部屋に空調がつけられなかったのでばててしまった。
半月ぐらいならば田舎に避暑もできるが、暑さがいつまでも引かない。
「暮らしやすいところに行こうか」

そして神奈川県某所。
日常の用事は徒歩で済み、都心には乗り換えの要らない場所だった。
歩き煙草もなく、車は道を譲ってくれる、安心できる街。
近くこそないが沿線には遊んでくれる先輩もいた。
難点は旅に出にくいことぐらいだった。
それも前の物件が便利すぎたゆえの贅沢に過ぎないのだが。

今回が最も正当性を欠く引っ越しだったかもしれない。
都心への所要時間が悪化しない条件で、帰省しやすい場所へ。
乗り換えが減って東西どちらにも各段に帰りやすくなった。
物件も相対的に新しいので申し分ない。
野菜が安く手に入る。
欲を言えばもう一つぐらい気に入る理由が欲しいところだ。
この街で暮らす必要性は特にないのだから。

ないない尽くし

JTF翻訳祭に初めて講師として参加してきた。
思いつく限りの事前準備で臨んだものの、反省点ばかり記憶に残る。

  • 自己紹介が皆無で自分が何者か伝えられなかった
  • 聴講者層の想定ができていなかった
  • 話の間が持たなかった
  • 会場の積極性を引き出せなかった
  • こうして並べてみるにないない尽くしだ。
    勉強会の発表者すら務めたことがない自分には舞台が大きすぎたのか。
    少し考えれば分かりそうな一番の基本を見落としていたということか。

    時間の都合が付けば聞いたのに、というお声もいくつか頂戴した。
    しかし社交辞令なのか本当なのか、聞き出す勇気も技能もない。
    人と話す力が圧倒的に足りないのだと痛感した次第。

  • 交流パーティーでほとんど名刺交換ができなかった
  • 翻訳とFPどちらで売り込むこともできなかった
  • 何らかの専門家以前に、社会人、人としてなっていない。
    我ながらよくぞここまで生きてこられたものだ。

    職人仕事

    鉄工所を営んでいた義父は数年前に自分の作業場を畳み同業の現場支援をしていた。
    労働力を提供し日給計算で対価を請求する勤め人のような形だ。
    ところが今月になって十数年ぶりに案件の受注があったという。
    言わば勤め先のさらに客先からとある大物部材をまる一つ任されたようだ。

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