何かを表現することは、別の何かを表現しないことである。
大学で習ったのか翻訳スクールで出てきたのか思い出せないが、時々ふと思い出す言葉だ。
文字であれ映像であれ、一度にいくつものことは伝わらない。
まして、どのように伝わるかは受け取り手によっても変わってしまう。
翻訳仕事では特に、このことを念頭に置いて言葉を選ぶことにしている。
できるだけ、異なる解釈のしようがないように。
そして、できるだけ、自分が素直に原文を解釈するように。
ここで言う「素直に」は「鵜呑みにして」ではない。
翻訳は他人の言葉を他人に中継する仕事ゆえに、自分も受け取り手の一人である。
ぱっと見て発話者が何を言っているのかは、語学力の範疇で解釈する。
そこから先の「実は何を言いたいのか」が、私の存在(介在)意義なのではなかろうか。
場合によっては訳出しないほうがよい箇所も出てくるのだ。
単純な原文のミスや言語の性質によって内容が重複するとき。
文書の目的としてそぐわない内容のとき。
勿論この場合は申し送りを付けて翻訳会社の判断を仰ぐが、実績として却下されたことはない。
そういう仕事柄、元々の性格とどちらが先か判別不能だが、普段から言葉を選ぶ傾向が強いことは確かだ。
それでも時には間違うだろうし、意図しない受け取り方をされる可能性は否定できない。
冒頭にも記したとおり、表現できるものは捨象の結果だからだ。
字面ではなく、捨象する内容が不適切だと傷はより深くなる。
肝心なのは、その時/それからどう対応するかではと思う。
原因が何であれ、誤解は放置しておきたくない。
一度の失敗が取り返せなくては、余りに哀しいからだ。
どうにかなる/できる可能性のあることを放置して後悔するのは御免だ。
こちらで招いた事態でありながら一方的にも程があるとは思うが。
自分の意思さえ満足に伝えられないようでは…。
できる限り誤解を避けるべく補足しておくと、この記事で自分を含む誰をも責めるつもりはない。
…などという内言はさらりと文脈に埋め込めるようになりたいものだが。
違いすぎて
大学時代の友達が遊びに来た。
会うのは二年ぶりだったが、二年分の近況を聞かれると意外に答えられない。
去年ばたばたしすぎたせいか一昨年の記憶がまるでないのだ。
彼女のほうも、何をしていたかというと「育児」の二文字しかないという。
まあ二年前に下の子を出産したばかりなので無理からぬ話だが。
彼女とはそもそも一時期いたクラブが同じだっただけのつながりで、他の接点はまるでない。
ダブルスクールから他大学の大学院を出て就職を経ず結婚し、今や二児の母。
経済観念が上流すぎないのでつきあえるが、まるで違う世界の住人である。
相変わらず快活で社交的で行動力のある人だった。
育児しかしていないと言いつつ、サークルを作ったりヨガ教室に通ったりと多忙な様子。
「今の内にやりたいことをしておかないと」とのことだった。
年度が替わったら、下の子を保育所に預けるべくまたパートに出るのだそうだ。
一方で、自営の仕事を始めたいがご主人の扶養から外れたくはないとか。
本や新聞でしか見聞きしていなかった人種が目の前で私に話しかけてくるとは驚きだ。
しかし全く裏を見せない人なので、こちらもひがむことなく相手ができる。
昼食が一段落したところで「ちょっと相談が」という。
「何でもいいからコメントちょうだい」と手書きのチラシらしきものを見せられた。
ごく真面目にあれやこれやが書き込まれた、でも暖かみのある作品。
自分がやりたい教室の宣伝チラシとのことだったが、教室自体が寝耳に水でしばし唖然。
彼女の決断力と行動力をもってすればおかしくはないのだが。
日本語の字面がどうこうという稚拙な突っ込みどころはとくになかった。
それよりも、何をしたいのかが分からないと何を伝えたいのかも把握できない。
勢い、「ここのコンセプトってこれでいいの?」「対象は誰?」と質問攻めにしてしまった。
真面目に、でも嬉しそうにメモを取られると妙に照れる。
こうした謙虚な姿勢も私には欠けているかもしれない。
私なりに考えて誠実に答えたつもりだが、素人の域を出るものではなかったと思う。
(振り返ってみると、広告ものの翻訳は数えるほどしか経験がない)
むしろ、一緒に考えて練り上げるという作業でこちらが勉強させてもらった。
その意図でこういう表現を選ぶ人がいたり、そういう場合があるのか…。
それにしてもすごい行動力だよね、と感心すると、「そう?」と彼女は屈託なく笑った。
「自分で始めないと何も始まらないから」
「今こうしているこの瞬間がとても大切だから」
まるで共通項のない彼女とも、それだけは面白いほど共有できた。
そうだよね、ありがとう。
貴重な自分の時間
同業つながりの友人(と呼んでももう失礼ではないはず)が近場まで遊びに来た。
商店街でお好み焼きと鯛焼きを食べてカラオケ3時間。
食事をしながら、歩きながら、特に何を話したというわけではない。
歌っている間もそれぞれの歌手やら曲やらの話題しかなかった。
カラオケボックスを出て「スッキリした。楽しかった。ありがとう」と駅に移動してから暫く立ち話。
出身地でないこともあって遊び友達もそうはいないよね、というあたりが主題だったのだが。
年齢こそ近いが、家族構成も就業形態もまるで違うので、住んでいる世界が同じとは言い難い。
それでも共感できるところは結構あったし、私の話にもかなり同情してもらえた。
「今の生活が優先だから」
「とっても貴重な自分の時間だから」
無用に他人に振り回され、ペースを乱されたくはない…。
私の場合は彼女ほどくっきりと自分の時間というものが縁取られていないのだが、全く同意する。
この「無用に」というのは私の解釈であって、決して彼女がそんな冷たい言葉を放ったわけではない。
勤めていたり、子供の送り迎えをしたりしていると、参加せざるを得ない人間関係がある。
生活の必要上そこは円滑に進めたいものだが、最低限にしておきたいと。
それ以上の言葉は続いていなかったものの、さぞや日常が大変なのだろうと思う。
改めて、自分のあまりに気楽な「ご身分」をかみしめた。
また、その最低限の付き合い、貴重な自分の時間という中でわざわざ会いに来てくれたこと。
光栄と言うと大げさだろうが、ありがたいことだと素直に思う。
便利さの裏返し
携帯電話が故障した。
同じ機種(biblio)を持っていない人には想像も付かないであろう不具合。キーが消えた。
しかも縦配列の時だけ、3の列が一つも点灯していない。
(この電話機、画面の縦横に応じて違うキーとして使える特殊な仕様になっている)
そう言えば去年そうして歯抜けになったとかいう体験談を聞いたところだったので、修理へ持ち込むことに。
ところが電話屋で門前払いを食らって唖然。
「修理中の代替に貸し出す端末がないから」受け付けられないという。
幸い一代前に使っていた別機種が自宅にあるので、取りに戻って再挑戦した。
と、今度は「おサイフケータイはお使いですか?」ときた。
モバイルSuicaの残額が約2000円だと云うと、窓口の人が困り顔で電話をかけ始めた。
「機種変更のお手続きをこのお電話でお願いします」と受話器を渡されたまではよかったが。
一度目、「大変混雑しております。おかけなおしください」
二度目はコールセンター以外につないでくれたようだが「まずアプリを立ち上げてください」
…つまり電話では何も解決しない。
アプリ操作で機種変更をする手続きなら去年もやったので知っているのに。
電話でも手続きできるのかと思っていたら肩すかしを食らった。
尤も、関西勤務の人にJR東日本のサービスを知っておけというのも酷な話なのかもしれないが。
ともあれ端末内のカードを右から左に抜き差ししつつ、「機種変更」手続きを終える。
本体に記録していた電話帳の内容を旧機種に移してもらうべく二台とも差し出したところ、
「こちら(旧機種)にも電話帳はございますよね?」
上書きはできないので自分で全部抹消してくれと言う。
消すのは造作ないが、その後からデータ云々の承諾書に署名というのが何とも後味よろしくない。
単純に手際の問題なのかもしれないが。
「あの、SDカードの移動はなさいましたでしょうか」
「さっきしておきました」
「流石」…流石?
そうこうしているうちメールの着信あり。
何やら待たねばならなさそうなので、軽く返信しようかと思ったら入力しづらいのなんの。
横配列が欲しくて今の機種にしたぐらいなので当然と言えば当然。
入力しづらいのは純粋に仕様であって致し方ないことなのだが。
慣れとは恐ろしいもので、以前ずっと使っていた機種なのにまるで手になじまない。
恐らく慣れた頃に修理が終わるのだろう(苦笑)。
にらめっこしない自由
疲れ目と肩こりは職業病だと決めつけていたのだが、直接の原因はパソコンにかじりつく姿勢だ。
仕事がある時はそれもやむなし。
しかし、ふと気づいてみると、仕事もないのにパソコンに張り付いている時間が長かった。
何ら生産的な活動をするでもなく、ついったーを覗いたりメールを待っていたりするだけの時間。
その上、仕事の打診がしばらく入らなかったりすると機嫌が悪くなるので始末が悪い。
これでは自分が昔から忌み嫌うテレビっ子と何ら変わらないではないか。
さりとて他にすべきこともしたいことも思い当たらない、とばかり何年を浪費したことだろう。
そもそも何のためメールを待っているのかというと、すぐに読んで返信するためだった。
考えてみると、すぐに読むという目的にはパソコンは要らないのだ。
携帯でも読めるように転送しておけば、仕事部屋どころか自宅を離れていても問題ない。
原稿が添付されていたりして携帯ではおぼつかない状況になって初めて着席すればいいのだ。
そんな簡単なことに気づいたのは、ごく最近のことだった。
外出時にはだいたい転送設定にしているのだが、それでほとんどの場合は事足りたのだ。
所用があったり散歩をしていたりする間は、特に意識してメールを待っているわけではない。
それでもちゃんと読むことはできるし、しかもメールが届けば携帯が鳴って知らせてくれる。
恥ずかしいほど些細なことだが、少し自由を得られた気がした。
そして、パソコンをしばらく離れてみると、特に何もしていなかったのだということに気づく。
何故そこまで執着していたのか全く見当も付かないほどだ。
勤めていた頃はいたずらに離席するわけにもいかなかったので多少の正当性もあった。
しかし自由業である今、そんな必要はないのだ。
やることさえきちんとやればよいのであって、規律も勤勉さも要求される謂われはない。
気分ごともう一回り自由になろう。
特にやりたいことがあるわけではないが、さしあたって散歩を楽しんでいる。
記憶の在処
気が向いたので、カシオトーンで少し遊んでいた。
電子ピアノにもシンセサイザーにもなれない、もっと手前の鍵盤楽器である。
ショパンの『ノクターン作品9の2』と『雨だれ』を弾いてみたのだが、やはり音楽にならなかった。
どちらも高校の頃は何とか弾けた曲目なのだが、今や全くのうろ覚え。
楽譜をめくれば見覚えがあるし、曲の音そのものは記憶にあるのに、弾けない。
61鍵しかないので上下いくつかの音はそもそも出せないが、それどころではなかった。
長音ペダルもないので、自分をごまかしながら弾くこともできない。
面白いことに、ついて行けないのは右手のほうだった。
しかも面倒な7連符やトリルなどではなく、単調な連打がうまくできない。
左手は存外まともにアルペジオを奏でることができた。
左右の手が別々に動いて一つの曲を演奏する、というのが面白いと感じるようになったのはごく最近。
実家に残しておいてくれたピアノが処分されてから何年になるだろう。
あったところで迎え入れる環境に住んでいないし、その目処も立たないので仕方ないのだが。
追想はともかく、弾けなくなっている原因は純粋な運動能力の問題ではないようだ。
まがりなりにも動けている左手がそう言っている気がする。
目的の旋律を奏でるためにどう動かすべきかの記憶が途切れているから、ではなかろうか。
恐らく記憶があるとしても文書情報などではなく感覚的なものなのだが。
「手が覚えている」といった類の何かだ。
その感覚を取り戻せたら何か面白いことがありそうな気がする。
ノマドごっこ
先日、日本通信のDoccica U300なるものを購入した。
FOMA網で上下とも300kbpsのデータ通信が可能という代物であるが、何故かホットスポット(のスタンダードエリアのみ)の使用権もついている。
試す機会もないかと思っていたのだが、大阪市立中央図書館が該当エリアであることが判明。
この図書館は徒歩圏ということもあり、何度か足を運んだことがある。
パソコンを担いで歩くには遠いかとも思ったのだが、思い切って試してみることにした。
ホットスポットが使えるのは、二階の談話室。
室内どこでも使えそうではあるが、今回は「持ち込みパソコン専用席」を借りてみることにした。
まず二階の相談カウンターに専用席利用の旨を伝えて整理券をもらう。
整理券発行時刻から2時間までは利用できるが、以降は利用希望者が出たら順次交代とのこと。
言われた時は少しひやっとしたが、着席してみて安堵。隣の人の整理券が午前中のものだった。
ホットスポットそのものの契約者がどう利用するのかは知らないが、接続は簡単。
bアクセスなるソフトを立ち上げて「3G・WiFi」ボタンをクリックするだけである。
待つこと数秒、よくわからない英語のページが立ち上がったが問題なく接続完了。
Doccica U300そのものと違い、タブの数を気にせず快適に利用できた。
#前者の場合、実質的に4-5枚しか開けない
談話室内では全てのテーブルにコンセントが付いているので、専用席以外でパソコンを使っている人も見受けられた。
専用席と他のテーブルとの違いは、むしろ机の仕様である。
壁に向かって設けられた専用席はちょっとした事務机そのもので、読書灯がついていた。
私には少し眩しかったので読書灯は使わなかったものの、想像以上に快適。
改めて理由を考えてみると、意外にもと言うかお恥ずかしながらと言うべきか、机の奥行きだった。
自宅での作業環境は標準サイズのメタルラックを利用しているので、奥行きは45cmである。
専用席の奥行きは推定60cm以上あった。両肘をまっすぐ置ける余裕がある。
それだけのことで疲れがだいぶ違うのだと気づき、些か驚いた。
これを教訓に自分の作業場所も改良できないか検討してみたいと思う。
所要時間を考えると日常的に通いたいほどではないのだが、状況に応じ活用したい。
JISハンドブックなどの所蔵も豊富なので、調べ物には不自由しないという当然の強みが頼もしいのだ。
また、本体だけで2kg超のパソコンを担いで往復するのも意外と苦にならなかった。
持ってみて「高校の時に持ち歩いていた鞄より軽い」という感覚に軽く衝撃を覚える。
肩掛けもできる鞄なのだが、手持ちでも思っていたより楽だった。
考えてみれば秋口から5kg減量しているので、それでも歩けた距離は歩けて当然のような。
ようやく始動
近くにある神社の「残り戎」に朝から行ってきた。
十日戎という行事やら習慣やらは関西に昔からあるようだが、何故か縁が薄い。
毎年どうしたことかその周辺日程に用事があって覗いたことがなかったのだ。
仕事を抱えバタバタした状態ながら敢えて行ってみた理由は、厄年の札の処分である。
いかに不信心な私でも、お札をむげに捨てることはできない。
元日にも別の神社を覗いてみたが、集めて火にくべている様子はなかった。
十日戎の期間内であれば受け付けてくれるだろうということで持ち帰っていたのだが。
宵戎、本戎は休日と重なってかなりの人出があり何かと心配だったので、残り戎に。
お札を回収する場所がちゃんと案内されていたので、安心して置いてきた。
おみくじを引いたところ、末吉。
何事も自分からはしないほうがよいとのお告げだった。まるで厄年。
まあ積極的に出歩いて人と会うのは、去年だけで一生分やった気もするのでかまわないが。
それぞれの項目を見ても、芳しいことが書いてあるのは学問のみ。
おとなしく勉強でもしておけということか。
去年いい図書館を見つけたことでもあるし、それもいいだろう。
今年の仕事始めは7日だった。
例年は年越しで何か抱えていたり三が日に海外から受注したりしていたので、珍しく遅い。
しかし副業と本業がほぼ同時にやってきたので、濃厚ではあった。
ほぼ四日半、休まず稼働。睡眠時間は取れたので調子は悪くないが。
どうにか各方面に無理のでないような調整ができる一年にしたいものだと思うなど。
言葉なき便り
年末の買い出しから帰宅すると、宅配便の不在連絡票が入っていた。
差出人は郷里の伯母である。
ものを受け取ってみると、ずっしり重い箱だった。
冷蔵庫の一段をまるまる占領するダンボール箱いっぱいに、地元名産の蒲鉾。
のし紙も添え状も入っていない。
時節柄、紅白の板物と伊達巻きも入っていた。
二人で食べきれる量ではないので、季節物はダンナの実家へ運ぶことに。
私は電話が苦手なので、頂き物のお礼は手紙で済ますことが多い。
しかし今回は何か引っかかるものを感じたので、敢えて夜に電話をかけてみた。
品物は何の変哲もない蒲鉾だし、送られて不審に思う由もない。
ただ何となく、声が聞きたくなったのだろうと感じたのだ。
電話の第一声は、「この前は(家に)いなくてごめんね」だった。
帰省する時はできる限り顔を見せに行くことにしているのだが、先月は会えなかったのだ。
手土産だけを母が後で届けたこともあってか、こちらよりも気にしていたらしい。
その後どうということはない近況を話す声はやはり嬉しそうだった。
そして、努めて明るい声で話そうとしている。
恐らく何か気落ちすることがあったのだろうが、敢えて聞き出そうとはしなかった。
ちょっと聞こうかなと思うと、牽制するような間で「年だから」と苦笑いが入る。
そうじゃないでしょ、と出かかったのを飲み込み、一通り話を聞いた。
気分転換で長姉の旧居にほど近いその店を訪ね、いつもと違う空気を吸ってきたのだそうだ。
本数の少ないバスを乗り継ぎ、何区間分かはリハビリがてら歩いてきたという。
そうして蒲鉾を見たら、私の好物だったと思い出して送ったのだと。
全く彼女らしい。
元気でやっているからご心配なく、としか伝えようがなかった。
「若いからって無理をため込んではいけないよ」
「どこか調子を崩したら、徹底的にちゃんと治しなさいよ」
こちらが見えているかのように、耳に痛い言葉を投げてくる。
何も伝えてなくとも、お見通しなのだ。
そして自分のことは棚に上げて、こちらの心配ばかりする。
夏に顔を見せたときの「あんたは変わらないねえ」と言っていた表情を思い出した。
しばらくしたら、変わらない顔を見せに行こう。
それしかできないことは解りきっている。
筆跡は語る、のか?
癒しスタジアムなるイベントに参加すると称して、岐阜の旧友が来阪した。
どんなイベントなのかも分からないまま、乗り換え案内がてら同行することに。
彼女は既に特定のブースで予約がしてあるとのことで、一時間ほど「その辺ぶらぶらしといて」。
ビューティースタジアム同時開催とかで、前世占いからネイルアートまで凄まじい混沌の世界。
とりあえず二週ほど見て回っても時間は有り余っている。
せっかくの滅多にない機会なのでと思い、開運筆跡診断なるものを受けてみた。
占い横町の一角?
葉書に自分の住所氏名と「様」を記入し、その筆跡を「心理学で」診断してもらうというもの。
後から聞いた話では、「筆跡心理士」という商売があるらしい(苦笑)
青字が鑑定してもらった字、黒字は私のメモ(お目汚し失礼)
一通り書き終えて差し出すと、「先生」は開口一番に「ふるかわさん、情の人ですねぇ」としみじみ。
自分では、義理と人情を秤にかけたら義理を取るほうだと思っていたので意外だった。
診断の根拠は、「様」の最後の「はらい」が余分に長いことだという(写真参照)。
この字の書き方のとおり、余韻を引きずってしまうとのこと。
他に指摘された箇所は箇条書きにしてみる。
・一行目の後半が右(紙の縁)に寄っている:精神的に疲れている
・偏と旁の間隔が狭い:他人がつけいる隙のない「自分の芯」を持っている
・紙面に対して字が小さい:自分から前に出て行くタイプではない
・「とめ、はね、はらい」が徹底されている:責任感があり、自分でけじめをつけられる
(一方で、こだわりが強く自分を追い込んでしまいがち)
・字画に「ひねり、ひっかかり」がない:素直に物事をとらえられる
・木偏の縦画が横画から十分に長く出ている(写真「様」の字):出るべきときは出られる
・横画の閉じが甘い(写真「智」の字):交渉の詰めが甘い
総合診断としては、
・情にもろく一途なところがある
・完璧主義でこだわりが強く、専門職に向いている
・売り込みや交渉は不向き
とのことで、職業を答えたら愉快そうに大笑いされた。
開運アドバイスがもらえるのかと聞いたところ「何をしたい?どうしたい?」と逆質問。
特に夢やら展望やらはないが、人に迷惑をかけず生きていければ、と素直に答えてみた。
「それならこのままで大丈夫。それでも困ったときには誰かに話を聞けばよろしい」とのこと。
そして最後に悪戯っぽく、「どうせ何をしろと言ったところで聞きやしないでしょう」。